7月

なぜ、人を殺してはいけないのですか
直ぐ讀めた。日本人は天國に行けると思つてゐるのではないかとの事だつた。地獄が怖いと云ふ人は居ないな。

学校では教えてくれなかった算数
讀み掛け。面白い。書いてある事を理解しようとするのに知識が足りない。
普通の問題集は、今の時代に役立てられてゐる知識であるらしい事しか解らない。

2010年6月

6月13日

正字正かなサイト」で假名遣はだいたい覺えた。字音假名遣は解らない。漢字の讀みを平假名で綴る方法が解らないと言つた方が良いか。

しかし正漢字は駄目だ。凄く中途半端に憶えてゐて、いざちやんと習はうとすると學校教育から三度手間を踏んでゐる氣分になる。


正字正かな派」等と言つても今の日本語入力で「正字」と言ふのは無理がある。と言ふよりも漢字制限に從ふ以外有り得ない。技術の問題もあるとは言へ。


三度手間に感じるのは私がさつさと正字を勉強しなかつた所爲だ。しかしウェブ記事を讀んで「舊字」の語を習得するケースはあり得る。公教育だけでなく個人レベルでも漢字教育は制限されてゐる。

何より現状、制限を受ける必要が全く無い個人の表記が露骨に制限されてゐる。

2010年3月

3月4日
Kirokuroの床屋政談日記 : 謹賀新年
今コメントを書かうとしたら書き込めなくなつてゐた。以下書かうとした文章。

では「Kirokuro」とは何なのですか。何故性別年齡身分の話になるのか全く解りません。Kirokuroとはまるで社會的發言や政治的發言をして許される人種名か何かのやうです。「被害者意識」とは何の事ですか、私は野嵜さんは「Kirokuro」さんの被害に遭つてゐると今主張してゐるのですが。
意味不明な理由で多くの人間を侮蔑しつつ、自分の意見が當然受け容れられるかのやうに「言ひたいですね」などと締められると相當鈍いのだらうとしか思へません。
「『粘着』」などと書いてゐますが「Kirokuro」さんがしてゐる事こそ「他者批判」「荒らし行爲」に過ぎません。場所によつて何が變はるのですか。ウェブで「場」に拘る事には意味が無いと云ふやうな事は野嵜さんが書いてゐたし私も書いてゐます。そもそもその程度の通念で氣樂に人を裁いてよいのであれば「粘着」としか言ひやうの無い行爲が許される筈はありません。
「Kirokuro」さんは勘違ひしてゐます。普通の人は喩へ「こんな人間は非難されても仕方が無い」と判斷した事があつたとしてもそれを口に出しません。そんな他人の缺陷よりまづ自分の事を何とかしようとか、なるべく意義がある事、なるべく正しい事をしようと考へるからです。まして自分の缺陷など幾らでもあるのに何年も他人の非難を「しても許される」事を理由に續ける人などゐません。
しかし「Kirokuro」さんは「自分はそんなに惡いのか」と云ふ根據しか無いのにも拘らず、特定の相手に反省を求める事は何年も止めません。他人にまづ己の所業を反省すべきだと迫るのは矛盾してゐて間違つてゐます。他者批判が必要な場合はあります。その機會を作つてしまつてゐるのが「Kirokuro」さんです。

常識を持ち出すべきでない場合はあると云ふ事。

3月5日
政治的發言は政治運動に屬する發言の事だと思ふ。社會的發言の方は解らない。誰だつてしよせんこの世の齒車です。

今日は満月へのご意見・ご感想

人の揚げ足をとって楽しむことを目的に、歩き回っている徘徊者がwebにはいるので、きちんと説明をしておかなければ後でどんな可笑しなトラックバックやらコメントやらを受けるか分らない。いや、ふと思い出しただけ。誰も本気で、こんな日記に突っ込みされるだなんて思っていないから。

私の「揚げ足取り」も「こんな日記」も全て本氣ではないとニヒルなやうでゐて、何事も無く更新し續けてゐるのだからそれすら冗談半分だと云ふ事になる。
確かに、あるべき議論の仕方だけ論ふのは程度の低い行爲だ。論ずべき問題を知らなければ意味が薄い。だから立派ではないけれども、しないよりはした方が増しだと思はれる。批判はして貰ひたい。しかしさう云ふ事をする意義からして無い物と極附けられる意味が解らない。

2010年2月

2月9日
読書感想文――ツァラトゥストラへのご意見・ご感想
駄目な括弧の使ひ方のどの邊が駄目なのか、そのやうに例を舉げてより詳しく説明出來るなら最初からすべきだ。
初め説明不足で意味不明な文章にあり得る特徴の一つ(意味不明な括弧)を突然非難するから、何故そんな細かい事をと思つた。
それに無意味(意味不明)な括弧はあり得るが他人の使ふ括弧が本當に無意味かどうかは定かではない。「或る文章の中では無意味」と讀む範圍を限定するならそこで説明されてゐるかどうかは判る。單に「無意味な括弧は使ふべきでない、詳しい説明をしなければ解らないから」と主張しても無意味な括弧は意味不明だ、と云ふ當り前の話にしかならない。
それでこれ迄の例から引用無しの非難なのではないかと思い、をかしな文章だと思つた位で惡意を持たれては困ると云ふやうな意圖で最初のコメントを書いた。本當は單なる七鍵さんの説明不足だつたらしい。
しかし引用もせず、要は論證無しに極め附けをするのは不當だ。(そもそも意味不明な括弧を使ふプロの文章がそんなにあるのだらうか。括弧の意味を讀み取らないで無意味な記號と思ひ込んで適當に讀み流す事は素人ならよくやらかしてしまいさうだ。)
觀念的なものの言ひ方をする註釋は即誤魔化しであるさうだ。觀念的なものの言ひ方とは何か。
ニーチェは原文を讀める同時代の讀者にとつては著者であり註釋者でもあつた筈だ。今の日本人にとつては今の日本人向けの飜譯が一番の註釋だ。皆飜譯を飜譯と知りつつも取りあへず「ニーチェが書いた文章」だとする前提で讀んでゐる。
と言ふか註釋は正に無いよりも有つた方が役立つかも知れない代物ではないか。難しい本がなかなか解らない自分の情けなさを置いて他人を怠慢だと非難する事は間違つてゐる。註釋は理解の助けになるかも知れないのは事實で、自分が何も得られない事は註釋が使へない事の證明にならない。いや良く讀むと何だかんだで時間を掛ければ註釋無しでも讀めるらしい。今まで取るに足らない註釋に振り囘されていたけれどももう大丈夫だとか。やはり陰口だつたのだ。我慢ならなければ陰口を言つても良いと云ふ事になつたら滅茶苦茶だ。

2月15日
碌碌雜志 2010年2月中旬 -- Key:雑学事典
http://www.7key.jp/diary/list/2010_02b_11_01の記事が休日の過ごし方になつてゐます。
1
要約すると今囘最初の記事はばれないやうにそれとなく非難したものだと七鍵さん自身が明してしまつた。陰口は許すべきではない。
同時に今囘出典元は示しても未だ論證にはなつてゐない。それでは「未だ」批判として有效ではない。根據の無い批判はデマと同じで矢張り許すべきではない。
2
人によつては「許すべきではない」と書くと「説明」やその他何か反応を要求してゐるやうに聞こえるかも知れないが、これはやつてはならないだらうと主張してゐるだけだ。
「人の文章を叩くな」ではなく「その記事では註釋に落ち度があるだらうと言つた事になりません」と云ふ事。
これらは言つてゐる事は同じではない。考へ方を變へた人はさうと解るやうな行動をする事になるだらうけど、それは個人の事情。

ニーチェではないが「現代の批判」をちよつと讀んだ。「俺は馬鹿だから『反省』しない」つて俺は馬鹿「だから」反省しないだと讀んでゐる人はゐるだらうな。少なくともKirokuroちやんねらーはさうだから小林秀雄の讀者にもゐてもおかしくない。「普通馬鹿は反省すべきに決まつてゐるが、さうでない理由があるから自分は惡くないと云ふ自己主張・嫌味である」と讀むのは違ふだらうと。
否定する理由が見當たらない事を理由に醒めてゐる事だけが正しいとは云へない。言ふ間でも無く必要な事以外は無意味と看做さなければならない、と主張する人は多い。しかしそれを主張として主張するのは何かに意味を見出してゐる人に反對する時しかない。
人に認められる價値と人生の意味とは混同し易い。つまりニヒルではやつていけない、さう云ふ意味で信仰は自然に持つてしまうものだ。
だから何だと言はれると、これ以上今の自分の頭で何か發見出來るとは思へない。チラシの裏ではない問題はあると言つてしまつているが、理論は無い。
ウェブでは多くの人が餘暇と言ふ仕事をしてゐるが、それは別として誰でも仕事はしなければならない。

2010年1月

1月20日
携帶電話を買ひ換へようかと思つてゐる。上のから下のに。
C3002K | 2001年 | 製品アーカイブ | au by KDDI
S002 | 携帯電話 | KDDI株式会社
今1XからWINに變へると機種變更代を割引してくれる。と云ふキャンペーンのチラシが時々來る(少なくとも東京では)。S002は近所のauショップだとシンプル一括八千円圓弱。當然ポイントも適用される。
毎囘このチラシは中途半端な情報しか載つてゐないので都内auショップの店員さんに訊いた事。
今囘キャンペーンの期限は決まつてゐないらしい。なので今月いつぱいで終了する事も有り得る。
割引額は月單位で變はり、割引對象機種も變はるかもしれない。
割引はau携帶電話を取り扱ふ店なら何處でも實施してゐるが、auショップ以外での割引額はauショップでは把握してゐない。auショップの間では店によつて千圓〜二千圓程度の差が有る。
割引對象機種に依り割引額は異なる。CA004やSH004は五千圓位しか引いて貰へないのだつたやうな。高いのを買ふ氣が無いのでうろ覺え。安いのはS002とmisoraとW63Kでどれも同じ程度。その邊は待つてもこれ以上安くはならないらしい。他機種もこのキャンペーンでこれ以上の割引はされないのだつたかな。
やつぱり詳しい事は店員さんに尋ねて下さい。
換へるべき理由は今の基本料金で無料通話がやや餘つてゐる事。それに電池の減り方が早くなつた。電池パックの問題なのかは分からない。
S002は持つてゐれば使ひさうなワンセグ機能附きの割に安い。どうせ今のも使はないくらゐだから變へて不滿は無いか、と思つたが通話時の音質はどうなのか。今は不滿が無いので尚更氣になる。
携帶電話は安つぽくなつて行つてゐるし、捨てるのは勿體無いから、周波數再編まで待ちたい。しかし随分損してゐるし。携帶電話持ちたくないとも言つてゐられないから一昨年が買ひ換え時だつたと思ふ。
auが周波數再編の事をチラシに書かないのは謎。

1月21日
見せかけの爲の努力でもした方が人の役には立つかもしれない。でも中身は同じだ。

1月23日
闇黒日記平成二十二年一月二十三日、パンセの五八 「君は義理をわきまへぬぞ。失禮ながら」は「失禮ながら」だけに鉤括弧だと思ひます。
中公文庫(前田陽一・由木康譯)でしか讀んでいないけれども。當たり前の事ながら譯が結構違うな。
こちらも引用する。
p276-277(四三四)

私は独断論者たちの唯一の砦の前に足をとめよう。それは、誠実にまじめに話すならば、自然的な諸原理を疑うことはできないということである。

これに反対して、懐疑論者たちは、われわれの起源の不明という一言をもって対抗し、そのなかには、われわれの本性の不明という問題も含まれているのである。それに対して、独断論者たちも、世の始めから何か答えつづけている。

こうして、人間のあいだに戦端が開かれたのである。この戦いでは、各人はその去就を決し、あるいは独断論、あるいは懐疑論のいずれかの側に必ず立たなければならないのである。なぜなら、中立を守ろうと思う者こそ、懐疑論者の最たるものであるからである。中立を守るというこのことこそ、この徒党の本質なのである。彼らに反対しない者は、りっぱに彼らの側に立っているのである。

p281

四三五

これらの神聖な知識がなかったならば、人々は、過去の偉大さのなごりである内にある感情によって自分を高めるか、あるいはまた、現在の弱さを見て気を落してしまうかのほかに何ができただろう。なぜなら、真理の全部を見ることができなかったために、彼らは完全な徳に達することができなかったのである。ある人たちは、本性を腐敗していないものと見なし、他の人たちは、修理不能なものと見なした。それで彼らは、すべての悪徳の二つの源である、高慢あるいは怠惰のいずれかをのがれることができなかった。というのは、彼らは、悪徳のなかへ、卑怯にも身をゆだねてしまうか、あるいは高慢によってそこから脱出するほかはなかったからである。なぜなら、もし彼らが人間の優秀さを知ったとしても、その腐敗を知らない。その結果、怠惰はうまく避けても、尊大のなかに身を滅ぼしてしまうのである。また、もし彼らが、本性の虚弱を認めたとしても、その尊厳を知らない。その結果、虚栄をうまく避けることができたとしても、それは絶望のなかへ飛び込むことによってである。

キリスト教の知識、と言ふかイエス・キリストの教へは知らないよりは知つた方が良いと思つた。

本當に人の爲を思つてゐられる時が少しでもあるとしたら、誤る可能性は如何なる場合でも捨て切れないものの、その時こそ自分の行動が人の爲になつてゐるかどうか目を向ける機會になる筈である。
さう云つた心構へを持たない時に自分勝手な態度を守らうとしないでゐられるのか疑問に思ふ。

ポパー「よりよき世界を求めて」も拾ひ讀みしてゐる。

1月24日
頭の中で論證する事があるからと言つて、それを書き表せなければ本當に論證をしたのかどうか解つたものではない。
短文しか書けないのでは困る。書くのが思考の妨げになつては困る。

パスカルにしても福田恆存にしても、論爭家であり、戰鬪的で激しい言葉が極めて多いのだけれども、世間の人は只管無難で穩當な感じの言葉許りを採上げ、一般的な「聖人君子」の類として扱はうとしてゐる。
だから勘違ひする人が續出するわけだ。
中公文庫の方の譯は如何にも物腰柔らかな感じ。
譯そのものの問題なんかより問題意識が無い讀書に意義は無いと云ふ事なのだが。

1月25日
もう寢るべきか思ひ附きを思ひ出してメモするべきかと考へてかうなつた。

或る種の差異を區別しない、見出さない事への批判。公正。死ぬのが程度の差はあれ無念だとは言へ、生きた人間の惱みと死者の無念とを差別するのはをかしい。さう云ふ事に怒りを覺える感情は認めてはならないのか(本當に怒るべき事に怒つてゐるかは疑ふべき)。

偏見は「気を附けよう」で濟ませても直らないし、誤りは見附ける事からして難しい事。ポパーのエリートと大衆と云ふ見方への批判は他のレッテル貼りにも通用する部分がある。○○だから何をやつても無駄、間違ひ。或は有益、完璧。と云ふ理論。
價値觀(≒偏見)は持つてゐないとは言へない事。上に引いたやうな「無關心の懐疑論者」はさう云ふポパーが批判するやうな相對主義に無意識の内に染まつてゐると思はれる事。何でも良いから何かする必要性を考へようとしてみれば多分解る。上の文で言へば怒るべき事等あるのかどうかとか。「狂信」。

批判が必要である事。批判する時それが自分に當て嵌まる事は多い。←この邊り特に重要だと思ふ

正義感はあらゆる時に必要だと思はれる事。けれどもそれは正しい事が出來るかどうかとは無關係である事。正しい事をするのに正しい判斷が全く役に立たないとは思はれない事。より正しい判斷にはより正しい知識が附き纏う事。

より正しい判斷の爲に必要だと思はれる知識に就いて。今日買つた本の事。さう言へば聖書は歐米人が餘りに引用するからネタとしてだけでも知つておいた方が良いな。さう云ふ讀書はするべきではないが。本を買ふ時に思ひ出したパンセの循環論法云々(六)、あれが解らない。

『ノートルダム・ド・パリ』における「二重の存在」とその「調和」 - がらくた置場
リファラに載つてゐた(nari28さんにリンクされてはゐない)。
パンセのその文ばかり有名なのはどうかと思ふ、と言ふのもその事を詳しく説明したりそこから先に行つたりする部分が多かつた氣がするので。四一一。四一八。

論理的な繋がりを斷片的にしか見附けられないのが「知識」「尺度」不足なのではないか。

ブックオフで、自己啓發書の棚に屡々參考書が紛れ込んでゐた。何らかの答へ(成功、救ひとも言ふ)と云ふのは全て疑ふべき(例へばこれの「全て」の部分が眞なのかも含め)なのだから、判斷力を鍛へる事に繋がる知識を最優先に得ようとするべきだ。(これは自己啓發批判であつて同じ理屈で參考書の方が役立つとは言へない。)

括弧へのご意見・ご感想
「狂信」「知識」「尺度」はポパーから引いた。野嵜さんが良く解らない鉤括弧を使ふ時は、自分が何處かに説明があるのを見逃して(忘れて)いるか、紹介されてゐる本に書かれてゐるだらうと思つてゐる。
例へば「ある」は大概、世界3の實在の事なのかなとか。廣く疑問を呈する事が出來るのは便利だ。
けれども誰か(筆者や自分、第三者)の指摘で語の定義が解つても、未だ文章の意義を理解するのに十分とは限らない。その用語の意味を知る事で文章全體の意味を理解出來るかどうか、それを檢證するのに必要ではある。その段階で無駄のある文章かどうか推測出來る。
コメントの補足、「使はない方が」は括弧に係ります。

1月26日
今が晝だつたら、いや時間よ止まれ。考へてゐて時計を見たら考へる前から0分しか經つてゐなかつたと云ふ事になれ!!
何でコップの底に殘つた野菜ジュースが牛乳になつたと思つたら今度はココアになつてゐる上に片附けようと思つた食器が増えてゐるんだよ。生かされてゐるなあ。

税の学習コーナー|税について調べる|国税庁
何時か讀む。

私がライバル/井上多美子 本 - TSUTAYA online
昔讀んで印象に殘つてゐる漫畫。何時か買はう。
全然昔の先生ではなかつたし。他も讀んでみよう。

1月27日
括弧(2)へのご意見・ご感想
どのやうな文章を書くべきか(=書かないべきか)と云ふ問題は、人間は何をするべきかと云ふ問題に含まれる。
皆が惡文ばかり書いて、勝手な讀み方ばかりし合つて一體何が惡いのか、と云ふ問題の方が大事だ。
七鍵さんはその結論から何處かに書いてゐるのかもしれないが探してゐない。

言葉の救はれ――文學と時代: 高村光太郎の詩
また何言つてゐるのかも解らないスパム。今更發見した。ノズラー言つてゐるのは2ちやんねらーだとか、「冷たい支持」つてどつちなんだとか。

1月29日
括弧(3)へのご意見・ご感想

"「犬」"よりも"赤くて小柄な犬を「犬」とする"と説明があった方がより好ましい、何故、「赤くて小柄な」を省略するのか

それはどんな外見の犬か知らないと文章の意味が解らない時ならその通りです。その「犬」に括弧が無かつたとしてもその通りです。

11月のメモ

11月3日
近代日本語に弔いを 2.01 - 白鳥のめがね
yanozさんは「言語変種」「多様な言語的諸実践の一群」即ち實際に使はれてゐた全ての日本語の内、yanozさんが知るそれらを近代日本語に分類する。そして「決定的に失はれたものに對する關係(ないし無關係)をどのやうな仕方で考へられるのか」つまり近代日本語をどう「弔へるか」を摸索してゐる。と云ふ事か。
弔ふといふ用語の使ひ方については解らなかつた。檢索しただけでしかないが「弔いの哲学」では生身の人間について論じられてゐて、小泉さんは普通の意味での弔ひと云ふ行爲、殊にそれについて一般の人が持つ觀念を批判してゐる事は窺へる。だが弔ふ對象を人間以外に廣げてゐる訣ではないらしい。
書きかけ。
小泉さんにとつて眞の弔ひは人がすべき行ひらしい。なのでそれが一つの結論だと言へる。yanozさんは見付けられるかも知れない何かへ辿り着く爲に弔ひと云ふ手段を採用してゐるらしい。何かとは何なのか。
yanozさんの弔ひは失はれたものに對してしか行へないのは確か。
失はれたものとは何なのか。
あと近代とは何處から出て來たのか。
生きてゐた「國語」なる概念が錯覺ならば、現代國語も錯覺である筈だが死んだ物だけ取り上げるのは變だ。
具體例を纏めて近代日本語に屬すると説明した上で、近代日本語=國語なる表現は錯覺であつたと主張するのはをかしい。政府や誰かが何をしようが勘違ひをしようが關係無く、具體例を一つに纏められるならそれが一言語の一部だ。
今(同時代)は將來、明治から一括りにされるかも知れない。
考へ中。弔ひが普通の意味と全然違ふ事だけは解つたつもりなので、別にもう良いかとは思ひますが。

近代日本語に弔いを 2.1 - 白鳥のめがね

旧かなこそ正しいと思う人からすると、これも戦後の文字政策を批判する格好の論拠になると思われるかもしれない。私は、その方向には進まないようにする

唐突に宣言されても何の方向なのかよく解らないけれども。ぐぐるといきなり「均質な文字社会という神話」とか出て來る。

今の國語は敗戰後の人が國語と稱しながらそれを歪めた物だ。
先にある存在を僞るのは虚しい。それだけで改革は間違つてゐたと私は思ふ。
しかし國語を僞裝するのは素晴らしい方便だと信じてゐる人もゐる。だから「常識的に考へてこれは間違ひ」「この誰かが正字正かなを略す時か、好き勝手に書く時の法則らしき表は何なんだ。こんな物は要らない」とだけ言つても濟ませられない。

ブログ等の記事で主張したい時、「現代仮名遣いが正しいと考えていたが、それは間違っていた。本当は歴史的仮名遣いこそが正しい」と言うべきか、「現代仮名遣いが正しいという結論を出すのは誤っている。歴史的仮名遣いこそが正しい」と言うべきか。
前者は自分語りから論証に繋げている。後者は論証だけをしている。そのどちらも個人サイトにあってはならない形式ではない。 だが問題はある。前者は「現代仮名遣いが誰にとっても間違っていて歴史的仮名遣いが誰にとっても正しい」と主張したいのか、そんな根拠は無いが自分は恐らく正しいと思うと言う主観の表明に過ぎないのかが不明である。勿論、根拠まで示されていれば後者の形式でも問題は無い。
論理的な主張をしたいならば、過去の自分は価値観がX(ここでは現代仮名遣い支持)に属していたと看做し、今の自分にとって間違った意見を支持していた態度は切り離して考えるべきだ。つまり過ちを反省しない人間だろうと何が正しくて何が誤っているかは論じられる。
暫定的な結論すら簡単に出せない文系の問題についてある見解(仮説)を主張する人を、自分が間違った事の無い人間だと主張しているかのように誤解する事があるなあと。対立した事柄から一方を選ぶのでもない限り敢えて主張するような事は何も無い。
但し不正字・不正かなは簡単に否定出来る理由もある。

ボクと魔王のネタバレを求めてゐる方が辿り着いてしまつたらしい(?)。まあいいや。あの世界に限らず人間は「自分は勇者だから勇者」とか思ひ込み易いよねー的な讀み方が出來るといふだけの話。てきたう。う。またはてなキーワードの存在を忘れていた。まあいいや。
(11月5日追記)あと……野嵜さんなんかは普通の人と同じ土俵、對當な立場に立つた普通の話をしながら、普通の人が知らない價値觀に基いた用語を使ひその文脈で物を書いてゐるのだが、その事からして知らない人が多いと思ふ。アンチは人の事情を知らうとしないしアンチは多いから、知らない人が多いのはアンチの問題として置いておく。しかし野嵜さんが英文學や所謂「反近代の思想家」などに學んでゐる事まで最大限、とまで行かなくても多少理解しようと努める人は少ない。どうも哲學と言つたら哲學者の説を論じる事で、文學と言つたら文學作品、宗教と言つたら神樣佛樣について云々、と連想してから考へ出す人は多くないか。具體的に言へばいつか高橋直樹さんが野嵜さんとの論爭で前後の文脈を讀まず辭書に擧げられた意味で單語を誤解したことがあつたが、個々の問題にならないだけでその手の誤讀は何時もされてゐるのではないか。人は何をすべきかの問題は、暮らしの上で例へばウェブを何に使ふか、HTMLや日本語をどう書くかの問題でもある。と言ふのは話が逆で、「ホームページを作る」つたりすることが人が何かをすることに含まれるのだが、人は何をすべきかについて何かしら興味を持つた時、それは哲學や宗教の問題だ、と知るのは良いが、たゞ何となくさう連想するだけでそこから人は何をすべきかについて考へず、哲學や宗教の個々の問題や用語の使ひ方についてだけ知らうとすることは多いのではないか。知識は欲しがるが考へたがらない、考へる必要性を感じないと云ふ事だ。だがその必要性は誰にでもあると書いたのが福田恆存なりニーチェなり野嵜さんが擧げる人の多くであり、「知的怠惰は道徳的怠惰」の意味でもある。
そんな樣な指摘も「闇黒日記」で既出だと思ふだが、まあ自分なりに咀嚼しようとしてゐるだけで大味な話なのだが、この邊の事が私の頭で多少繋がつたのは「パンセ」を讀んでからで、今まで當然の事として諒解してゐた積もりだつたがやはりり人が何を書いてゐるのか表面的にでも知らうとするならその人が何を參考にしてゐるかも知るべきだらうと思ふ。(たゞ私が松原正などを讀んだけでその邊が解らなかつたのは單に自分に讀解力が無かつたからに過ぎないのだが、詳しく言へば「知的怠惰は道徳的怠惰」である例が自分のこととして解らなかつたのと、松原さんの仰るやうな、さつき書いたやうな哲學があるとは想像も附かない状態だつたからだ。逆にパンセを昔に讀んだつて今のやうな視點を知らないからやはり自分の問題として讀めなかつたのではないかと思ふ。)深く知らうとなると參考にしてゐる人が參考にしてゐる價値觀と云ふ風に延々辿つて歴史の上でそれぞれの位置附けが出來るまでになるべきだらう。そこまで大變な作業は一擧に出來ない。しかし話したり讀んだりする時は理解出來ない部分が何處かにあると疑つておくのは他人を他人と認めることで、それは必要だらう。それを知らうとする態度を敬意と言へるのかも知れない。

或る英語の先生が確か「日本人はよく日本語でかう表現したい時は英語でかう言ふ、と云つた暗記をするけれども、文章の中の有機的な繋がりを理解することこそが重要なのだ」と云ふやうなことを仰つてゐて、それを餘り理解せず適當に眞似してしまつた。

11月4日
人は、人に解る法則ぐらゐしか弄れない。表記はどんどん變化して行くのに、何故か戰後の物をお手本に改良出來ると思ひ込んでそれを廣めた人が居た。そんな「パクり」程度で國語國字改革なんて言ふのは大げさ過ぎる。(「オリジナル」ならば人工言語の押し付けと言へるかもしれないが、そんな物は作れない。それらしい物を作れたとしても、作つた人は母國語でそれを理解してしまふのだから新しく作つた事にならない。)
そしてそんな程度の事をするつもりで、變へたいと望んだ筈の表記を歪曲して長く使はせる結果になつた。それを違ふ意味で贊同する人も多勢ゐるのだから、正字正かな派としては改革當事者だけを批判すれば良いのではない事は明らかだ。

明治以降片仮名を使う頻度が増えるということは、ひらがな=書記言語だった言葉の世界を破壊するような、ある意味、音声中心主義的な改革でもあったのだろうし*2、その国家的な文化革命によって見えなくなった日本列島の書記言語の世界があったのだろうな、という風なことも思う。

明治憲法とか法律の条文、あと軍人手帳なんかに片仮名が使われたことの意味を、メディアの歴史として振り返るって仕事は、どれだけ進んでいるか知らないけど、そういうところにも反省材料というのはころがっているんだろうと思います。

「日本の歴史をよみなおす」を讀めば解るのかも知れないが、人が表記を使ひ分けた意味が多少なりとも解らないと讀み手はそのやうな推測に繋げて考へられない。

戦前に様々に試みられた「国語改革」が、結局、戦後的な「現代仮名遣い」に落ち着いたことは、単に上からの押し付けとは言えないのではないかと私は考えています。戦前の国語改革運動は単に学者の議論だけじゃなくて、一般人も参加した運動が様々にあったわけで、もちろん敗戦という事実は大きいでしょうが、戦後的な「国語」が定着する上で、ある種の自発性も働いていたのだろうし、そこに一定の「民意」が反映されていたことも間違いないことだと思う。

單に押し附けとは言へないから何なのか。役人だつて國民だし、政治に無關係な事に權力で以つて干渉した人間がゐただけの話だから、それは或る意味統治者の仕事ではない、と言ふか政策であつたのは事實だがそれを支へたのは個人が價値觀として持つ「政治主義」だ。單純に表音主義者が或る時に力を得た結果として今があるだけで、誰がどんなつもりで使ふかなど瑣末な問題だ。
そしてだから何なのかと言つてみても、yanozさんは改革批判の存在を知つた上で書いてゐる。押し附けなる言ひ方もそれ自體に批判が込められてゐなくてはをかしい。已むを得ない強制ならまづさう言へば良い話なのだから、押し附けとだけ言つたら許されざる壓制を意味するに違ひない。それに反例を擧げる即ち反證するのは、yanozさんが「舊字舊かな」よりも改革に從ふべきだと主張してゐる事を示す。もつと自分の立場を明言しようと努めるべき、或いは自覺するべきだ。
私も「脊椎反射レス」しただけで自分の立場なんか殆ど意識してゐなかつたが、言語は人工物でしか有り得ないと云ふ立場に對して違和感を持ち、反論してゐた事に氣附いた。だつて定着だの成功だのつて、今のところ數で勝つてゐるからそれが何なんだ。數と言つたつて、「日本語が幾つも有るのは疑ふ餘地の無い事で今はこの日本語が中心でなければ生きて行けないんだ」と教へられた子供が使用者の壓倒的多數ぢやないか。そんな改革支持者以外の無意識な人間が自發的だつた筈が無い。「敢へて注目すべき民意」を改革運動者に限定する事は許し難い。敢へて注目すべきなのは天然の言語と明らかな人工言語の違ひ、後者が觀念としては有り得ない事に無頓着、或はそれらを同一視しようとする國民の意識だ。一般人の國語改革運動のやうな「餘り知られてゐない事實を發見した」事を報告したいだけなら、「ある種」「一定」の意味も曖昧にせず事實として明らかにしてゐるか、曖昧な事は書かなかつた筈だ。と言ふのも無意味で、そもそも何を書くかについても理由はある。氣まぐれとしか形容出來ない動機で身體から發せられる行動は意味など解らないのだから日本語にならない。これが餘りに陰謀論的であることは間違ひない事實だと思ふ。
現状日本人は、小學生には改革表記しか教へず、無論、(古典を教へるやうになつても)他からこれを選ぶべきだとは言はない。それでは使へなければ恥ずかしいから・不利だから使はざるを得ないのだとしか思へない。野蠻な子供には野蠻に教へるしかないのだとしても、後から正當な理由を教へる者、主張する者は小學生が抱いた「イメージ」を何時まで經つても覆さうとしない。「これは日本語の法則として何時如何なる時でも『論理的に』正しい」と主張する場合、それが事實に據つて覆される一説に過ぎないことを認め、絶對的なイメージに據る極め附けを否定しなければならない。
しかし改革支持者ならそんな事をしないのは當然である。何故なら擁護の對象は「これが日本語の法則である表だ」と言ふ人しかないからだ。「表」が論理である筈はない。だから支持したければそれを作つた人に意味も無く連なるしかない。そんな誰かは無關係で、表を見ただけで意味が解ると無理を言ひ出すのが白石良夫さん等、今の改革支持者だ。が、改革容認派の多くは自覺が無いだけのアンチ正字正かな(派の個人)でしかない。
戰後日本語は「同時代の=これからどう變はるか分からない日本語」に法則を見出せるとイメージされ續けてゐる。それは表記法としては有り得ない虚妄である。

定着と言へば、闇黒日記平成13年7月16日の「元祖日本の仮名遣/定家仮名遣なるメールマガジン」は、「歴史的假名遣ひは明治政府のでつち上げ」説と物の見方としては同じ。

明治政府、戰犯になつてばかりだな。流石に判官贔屓したくなるのだが、私は精神といふものを知るべきだと思ふので政府の功罪を論じる方向には行かない。
想像の連続体としての日本語-タカマサのきまぐれ時評
「観念としての日本語」でググってみたら昔、野嵜さんが言及していたブログが。

さて、亀井孝先生、いわく。

「観念としての“ひとつ日本語”は もと 明治以来の 国語政策が 教育の 実践を 媒介として 定着せしめた 虚構に ほかならない」

ここより上、瑣末な一部の人間の感覺や理解力についてばかり書かれてゐる。讀めないのは非母國語だからと云ふのはそんなに簡單ではない(それは既にコメント欄で突つ込まれてゐた)。と言ふか「『わからない 日本語』を ムリやり わかるように 解説をつけてもらう空間こそ、『古典』という時間なのであり、そのための要員確保こそ、日本文学科とか国語教員養成課程という 大学組織なんじゃないか?」なる古語教育トンデモ説を檢證すれば濟む話なのに、この記事は人の紹介だけで論證がまるで無い。その後亀井さんの「日本語は無かつた」説を紹介してゐるから、無い物を在ると主張するのはトンデモだと言ひたいのは解る。しかしハラナさんが言ふのは連續性の無さだけで、日本語が「大和民族間」で續いてゐないと言ふ事は、やまとことばの起源は××語だと指摘するやうに、今の日本語は近代以前を起源とした別の言語だと指摘してゐるだけの事だ(これも逸爾散士さんに突つ込まれてゐる)。その時先に日本語と稱されてゐた方を外國語扱ひするのは有り得ない。
ハラナさんが否定してゐるのは國語ではなく國語史觀で、古語は外國語であつて日本語ではないと主張してゐるだけで日本語は存在しないとは主張してゐない。尤も亀井さんも「日本語は無かつた」=今はあると言ふハラナさんと同じ事を言つてゐる可能性はある。
それで、逸爾散士さんは後に「國語」イデオロギーの問題として擁護し、「言語がからむ民族紛争は世界にあることでしょうね。『国語』イデオロギーを論じるときも、自身のなんらかの政治的な構えを自覚しなければならない。世界では移民、難民、出稼ぎいろいろあって、言語でわりを食っている人も多いのに、『政治』を自覚しないというのはいささか良くない。」と主張してゐるのだが、自身の自覺と世界の政治問題に意識を向ける事がどう繋がつてゐるか、或は違ふ話なのかは不明である。それにしても、「國語」イデオロギーの問題が國語とは何かを考へる場合に重要だと私には考へられない。
それは國語・日本語・言語に關する全てを把握し、把握した事柄を體系附けしたいと望む人にとつては重要だらうが、それは性質を知らうとしてゐるだけで本當の意味を知らうとするのとは違ふ。國語とは何かについて既に見解があり、疑はうとはしてゐない。つまり國語とは何なのかを探して假説を立て檢證してはゐない。
私は何かが何であるかを知るべき、要するに世界の意味を知るべきだと思ふから、どうして「國語とは何なのか」と對象を絞つて疑ふのかも知りたくなる。
知るとは一般に言葉で説明し得る事だから、まづ知るべきなのは言葉、その内自分に最も密接な國語だとは言へる。自分に使へると思つてゐる表現の意味を遡れるだけ遡つて知りたい。
いやその前に何かに意味があるのではないかと疑ふ事を疑ふべきかもしれないが、それは出來ない。疑ふのを止める理由も言葉で説明されたり言葉以上の方法で理解出來たりしない限り論理的だと納得行かないからだ。しかも今の日本人は言葉以上に論理を説明する方法があるとは知らない。宗教でそれらしい事が言はれてゐるものの宗教も取り敢へず疑はざるを得ない。
では世界を知つてどうしたいのか、何が得られると思つてゐるのか。それが餘り解らないのだが、世界には當然自分は何なのかも含んでゐるから少なくとも自分が何をすべきかのヒントを求められると思ふ。何故自分がすべき事をのかと言へば、自分は生き延びようとする存在だから無知や誤解は避けたい。それと生きようとするのは物質的な本能に從つてゐると信じてゐる筈なのだが、それだけの爲に生きてゐるとは言へない。その意味が解らないからだ。誰にとつても有益で正しい義務があるのだと思ひたがるのもある意味人の本能だと思ふ。と言ふか。人は自分の非を素直に認めずにさも正しい存在であるかのやうに振舞ひたがる。それなのに上手く人を騙して樂になるだけのことに滿足せず、自分をも騙せなければ不幸になつてしまふ。そこで「人は所詮誤れる主觀しか抱けないのだ」と言つてみても何も進まないし、そもそもそんな事自分では判定出來ない。過ちばかり犯し續けて來たとは言へても自分は何時如何なる場合も誤つてゐるとは言へない。
「國語」の用法について。國語なる呼稱には國體などと同じ政治的意味が込められてゐたのだらうが、今現在定着してゐる國語の意味とは單に母國語を略しただけのものだ。yanozさん達は今の人が、今の自分達の爲に何を知るべきかを語つてゐる。それならまづは今現在定着してゐる言葉の意味から疑ふのが筋だ。しかし昔の意味を持ち出して、「過去の觀念が今の人間に深刻な影響を殘してゐる(ハラナさん)」、或は「今の人にも興味を抱き得る(yanozさん)」と論じてゐる。それは日本人の思想がその時から連續してゐる事實を示すことだ。二人とも正字正かな派の見解と一致してゐて、それらが物を書く理由となつてゐるのだからそれらは瑣末な一致ではないのに、氣附かないかとぼけてゐる。

正しい論理を守るべき事と正字正かなを守るべき事は一致してゐると言ひたいのだが、もうちよつと詳しく書いておく。
私は野嵜さんの勸めから福田恆存氏、松原正氏にも興味を持つた。未だに著作を讀んだと言へるほど讀んでゐないのだが、皆さん、逐一論理的で納得する事は多かつた。しかしその時は一人の主張として有機的な繋がりが見えなかつた。支離滅裂だと思つたのではなく寧ろ個々の主張に筋が通つてゐる事しか解らない状態で、何を言ひたいのか餘り良く解らないと少し意識しただけだつた。11月3日の方に似た話を續けている。
野嵜さんは(現代の)日本人が無意識に持つ共通見解に異論を唱へてゐるとも言へる。

11月6日
さて「一行で」「整理」しようか。私は長尾さん達が野嵜さんのサイトを讀んで自分に共通する價値觀を探してくれないこと、結果として野嵜さんの價値觀を見損なつてゐることにその異議異論を唱へ續けました。以上。こんなの記事と言つて良いのでせうか。
六頭さんはこんなの讀んで「難しいことを解り易く説明して呉れた」なんて思ふのですか。私が讀者なら思ひません。だから長く拙い説明をせざるを得ないのです。

六頭さんへ。
私は、一人一人の文章を逐一全レスしなくても、ここに居る人たちや全ての讀者に纏めて話が出來るやうに多少努めた積もりです。またこんな長文を讀む氣がある人なら野嵜さんの文章も讀まれるだらうと思つたので、野嵜さんの引用を餘りせずに引用だけで濟ませればまだしも冗長ではないと思ひました。基本的につまらないマジレスですが、せてぃさんへの「質問」は、そのまま質問でもありながら、せてぃさんの笑ひが嘲笑でしか有り得ないことの指摘でもあり、同じ嘲笑をする人の理由同士が衝突してゐてここを読んでゐさうな某粘着達も折り合ひを附けねばならない問題であり、その指摘を同時に込めた積もりでレトリックとしてちよつとは面白いのではないかと思ひました。(これは長尾さんへ。コメント欄とは言へこのブログしか讀んでゐない方の知識に100%合はせる必要は無いと思ひます。「本を読まないから文章を読めない」説も、闇黒日記の読者側にとっていつもと同じ――私からするとせざるを得ない――水掛け論、それだけでは詰らないだろうと思って書いたと云う事情があります。長尾さんと野嵜さんの話なのだからどちらの事情も考慮して良い筈です。)
ですが專門家ならもつともつと上手く省略し正確な意味を表し、何より意味の深いことを言へただらうと思ひます。私は素人なりにそんなことの出來る人を知つてゐる積もりです。野嵜さんの主張が福田さんと大體に於いて同じ所があつて、それを今の私もごく淺く共有出來ると思つてゐます。それが專門家氣取りなのは事實でもだから無知な状態のままで素人判斷をすべきではないし、最大限學んでこそどれ程素人なのかが解ると云ふものです。と、そんなことは無知な者でも言へるんですよ。
これも長尾さんへ、素人が素人考へで機械を弄つてぶち壞すのは、自分に弄れるかどうかも判斷の附かない素人だからです。これがどの世界にでも当て嵌まるのだらうと考へるのは學者ぶる事ですか。それは無知の知恵と言つても良い類のもので、學べることを全て學んだ人が言はない限り誇れることではありません。
何が言ひたいか敢へて整理しますと、六頭さんは素人が簡潔的確に言ふことを簡單だと思つてゐますが、それは詩を書くくらい難しいことです。

專門家の書いたことを一割でも知るのには專門的知識が必要だと云ふ見解は日本人の常識だが、それにしたつて專門家と素人の間には正確な知識の多寡以外何の違ひがあるのか。

残念ながら根本的に誤読です - 電脳如是我聞 - 長尾メモ8 weblog
「まったくイチイチ何言ってんだか。」トラックバックを送ると云ふ長尾さんにとつて常識的な行動を取らない、それを先に傳へたまでです。焦らないで頂きたい。(11月7日追記)と言ふか、「トラックバックは常識ぢやないです」と言ひたかつただけ。その常識は皆が守るべき價値觀であり、しなければ獨善であることと定義して書いた。そしてトラックバックを送らないのはその意味で非常識だと主張する人がゐる。私はそれの反對意見を持つてゐる。だからもしもその意味で「トラックバックは常識」と主張してゐるとしたら、その意見に反對する旨を書いた。重大だと思ふ問題について一言くらゐ書いたつてをかしくなんかないだらうに。
「まず、私に何を問うているのか、はっきりしてくれませんか?」(良い意味で)名譽は無くても、プライドならあるから、(笑)五つとか目玉を刳り拔いたらとか犬とか見るだけで讀みたくなくなります。でも結局自分についてのことだから讀んで、眞つ先に言ひ返さないと耐へられなくなります。
私まだまだ己が出來てゐませんで、反省しなければなりませんねえ、くつくつく、あつはつはつはつはつは。ぷつくくく、どうですせてぃさん、勝ちに執着するのと嘲笑するのならどちらがお好み、いやご不快ですか? 私は今あなたのお好きな七尾さんを嘲笑しましたよ。私が嘲笑したと感じたのだからしたに違ひないですよねえ六頭さん。まさか、それすらも良くない事であると? これらの代名詞お名前をお三方の誰に置き換へても通じることは説明するまでもありませんね。
「あぁ、返信は結構ですよ。」あゝ、返信は結構だと感じられたんだあ。私は必要だと感じましたよー。尤も六頭さんだけに返信したことは無かつた積もり。
「殊更己が出来る奴だたぁ思いやせんが、頭ぁ悪い奴の相手ぇする程ヒマでもありゃしやせんで。」いやあ私なんかずつと、七尾さんやコメント欄の人は暇な時に何か書いてくれれば良いと言ふ積もりで書いてゐましたよ。あなた方の興味の無い話題に附き合つて欲しい訣ですから。正確には興味を持つべきだと言つてゐますが、欲しいと言へば解るのでせう。
さて六頭さんへ。……まあ説明はもうしたしそれが何に當て嵌まるのかについての説明はいつかするとしませう、ところであなたはもし法律が無かつたら、自分が獨裁者になれたら、自分はどうするべきか考へたことがあるだらうか。あなたは、自分が私を裁けるなら私の目を刳り拔くと言つてゐる。さうするが宜しい=さうするべきだと言ふのはそれ程の意味を持つてゐる。もし冗談ではなく本當に「宜しい」と感じただけならば、あなたは私が(ryした方が宜しいと感じた「だけ」なのだらう。
長尾さん、今のところもうこれ以上の整理した説明はする氣が起こりません。これらが或る意味整理だと説明する氣も起こりません。これらが整理だと長尾さんには解らないであらうと何故豫想したかも説明する氣が起こりません。私はこんなのが野嵜さんより上手い説明だとは思ひませんから野嵜さんの文章を讀んで下さい。でもそれを誤讀したと思つたら指摘します、あれ誰がしても自由なんですよね。
11月8日
「整理した説明」始め。(1)

議論の面白さの本質は、○○であり、相手を言い負かすことではない(と自分は思う)。

このやうに書いた時、「議論」は何を意味してゐるか。議論の面白さの本質と書くのだから、それは議論に當て嵌まるやり取り全てに於いて含まれる面白さを意味する。(ここで、具體的にどのやうな行動が議論に當て嵌まつてゐるかの解釋はしてゐないし、不可能であることに注意。)
同時に、議論には相手を言ひ負かす性質も存在すると書いてゐる。
その上で、「と自分は思う」により、ここで言ふ「面白さ」が自分の主觀であることを示す。竝びに、結果としては議論によりどちらかが相手を言ひ負かすことになるものの、自分は相手を言ひ負かすことに面白さを感じない意を表明する。 これらを總合し、長尾さんがここで使つた議論を人が行つた結果何が起こるかと言ふと、それは○○されることと、相手を言ひ負かすことである。
それに對し野嵜さんは、相手を言ひ負かすのは喧嘩であり、議論とは區別すべきであると、普段から主張してゐる。そこで今囘も當初「相手を言ひ負かすことを議論と呼ぶべきではない」意を示した。
閑話休題
ここで今まで必要性を感じなかつたが、敢へて野嵜さんの説明の不備を論う。どうしても讀むのが面倒なら「説明の不備はあつたが大した問題ではない」ことの論證であると讀んで置いて貰ひたい。
議論と喧嘩を區別しないのは多くの人の習慣であり、野嵜さんが主張する正しい意味での議論を多くの人はしてゐない。
また長尾さんは話の枕に使はれただけだと言ふが、終りまで讀むと、正しい意味での議論の存在を認めてそのやうな議論をするべきだと云ふ價値觀の主張であつたことが解る。何故なら長尾さんのやうに議論と喧嘩の區別をしない人がkirokuroのやうな惡質な人間に騙され、身に覺えのない内に惡質な人間に加擔してしまふ例があり、そんな現状を認めるべきではないと書いてあるからだ。さう書くからには枕どころではなく議論の正しい意味を知らない長尾さん(やkirokuroに騙されてゐた人)への批判(非難ではない)が含まれてゐると云へる。(ここで上記の「例」が實在するかは今の問題ではないことに注意。)しかしそもそも觀念的な價値觀の主張からして多くの人には見慣れないのだから、説明不足と言へなくもない。例へば闇黒日記を讀んでそれ全體が日本人論の一部であることに氣附かず、日本人ばかり論じるのは偏つてゐると的外れな非難をしてしまふ人がよくゐる。
とは言へ、これらは野嵜さんのサイトを多少讀んでみれば解る筈のことだ。「多くて讀む氣がしない」のは結構、しかしそれなら依然、野嵜さんが本當に誤讀してゐるのか自分には判斷が附かないと認めることになるのだ。讀むのが速い人なら野嵜さんのサイト全てを一瞬で熟讀し、特に苦痛も感じないだらう。そのやうな人に合はせず長文を讀めない人に野嵜さんが合はせなければならない理由は無い。それに自分の根本的な主張に一々結び付けて説明したらそれだつて長々しくなるし、何も言つてゐられなくなる。ブログに對し記事毎に論文竝の質を求める人はゐないのだから、「闇黒日記」の在り方だつて許される筈だ。さう思つて私はこの、長尾さんに合はせた説明をしなかつたが、説明は何でもしないよりした方がマシに決まつてゐるからし始めた。
(2)
當初の闇黒日記記事に對し、長尾さんはすべての文章には誤讀される自由があるで「議論の本質を話題にしているのではなく、『ネットにあった議論的なモノ』を問題にしているのだ。」と反論した。それを誤讀と指摘するのだから、無論それは長尾さんの最初の記事(ネットには最早議論は存在しない)を讀めば解つたことだとして書いてゐる。
それを振り返つて確かめよう。實は最初の記事に「勝つことだけが目的になるやうなディベート型の議論」を否定した部分があつた。否定の仕方が「やつてて面白くないし、やりたいとも思はない」なのだから、それはさつきの文の「議論」を否定する理由と共通し、さつきの文の「議論」の意味を詳しく説明したことになる。それなら、さつきの文を「勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論の面白さの本質は、○○であり、相手を言い負かすことではない」と置き換へられる筈だ。……ところがこれでは當然をかしくなる。「議論の面白さの本質は、○○であり、相手を言い負かす勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論に面白さの本質はない」とすれば意味が通じる。つまり「議論」と云ふ單語は省略されてゐたものの、「面白い議論」と「面白くない議論」の意味を區別してゐたことになる。
その意味での誤讀を指摘したのが長尾さんの「イ」と「ロ」の説明である。そして「闇黒日記」平成二十一年十一月三日二つ目の項で野嵜さんが「こちらの勘違ひだ。申し訣ない。」と認めた意味での誤讀でもある。
まだ續きます、續かないと○○を省く意味など私の意圖は反映出來ないので出來れば待つてゐて欲しいのですが、長尾さんが最初から指摘し續ける意味での「誤讀」を野嵜さんも私も承知した上で反論してゐる事實を示す區切りになるので一旦書き込み。
續き。(3)。
これに對し、「野嵜さんが『よくよく見たら『定義』が『ある』からこちらの勘違ひだ』と言つた時、その根據が『勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論』の部分だつたとは限らないではないか」と反論されるかもしれない。だがそれ以外に議論を長尾さんなりに定義する部分が見當たらないのだ。確かにネットの上での話ばかりしてはゐるが、それだけで場所を限定してゐるのか否かは解らない。 それに場所を限定しただけでは、イやロのやうな誰かにとつてのそれぞれの議論を定義するとは解らない。だから野嵜さんが「異る概念が同じ言葉で表現されてゐる」と判斷した根據はそこにあると推定する。
ここで同日「……と言ふより、「斯うした下らない言爭ひすらも「議論」の一種だと勘違ひし」と私は書いてゐるのだし、それが私の言ひたい事の核心なのだから、先方だつて私の言つてゐる事を「誤讀」してゐるのだ。」の正當性を主張出來るやうになつた。野嵜さんは、そのやうな相手を言ひ負かすことは論爭と呼ぶべきだと主張してゐたのだから。先程の「また長尾さんは話の枕に使はれただけだと言ふが」以降を參照。
つて、「異る概念が同じ言葉で表現されてゐる」根據をもう一つ見附けた。ちよつと未整理だが仕方がない。 「やっぱり相手を罵倒したい、一方的に叩いて、いい気分になりたいという人は多く、そういう人にしてみれば、議論という形態を使わずとも、ネットでは好きに吠えられるようになった。」これはそのまま讀めば、さう云ふ人は議論と云ふ形態を使つてもどこかで好きに吠えられてゐたことを表してゐる。その説明は何處にあるか。「議論したがる人間なんて、ハナから大していなかったんじゃないかということも言えて。昔、議論に見えたものは、実は議論でもなんでもなく、それで得られるカタルシスは、言いっ放し型の一方通行でも、充分得られるということなのかも。」にある。言ひつ放し型の一方通行は一方的に叩くことと置き換へられる。使はずとも――られるやうになつたと云ふ言ひ方は、過去に何かを使つてゐた人がそれ以外で――をするのが可能になつたと云ふ意味だ。……そんな訣で、長尾さんは「勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論」が、議論であつて議論でない一方的な言ひつ放しに過ぎないと先に説明してゐたのだから、「異る概念が同じ言葉で表現されてゐる」のは間違ひない、しかしその違ひを説明してゐた。
(4)
しかししかしだ、實は誤讀ではなかつたと、野嵜さんは書き直した。(やつぱり私の誤讀ではないと思ふ
それは本當にさうだつたか、先づ長尾さんの記事を讀んでそれが誤讀か誤讀でないか私なりに疑つてみた。その結果、實は「勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論」が、私が一番上に書いたやうな「議論」の意味を二つに分かつことになるとは言へなかつたことを發見した。それの野嵜さんの指摘との關連は既に各所で示されてゐる筈だがまた改めてしようと思つてゐる。
その前に。
これには、「議論」を修飾する言葉として「勝つことだけが目的になるような」と「ディベート型の」の二つが存在してゐる。さつきまでは前者だけの置き換へから話を進めてきた。それでは正しい讀み方を決定するのに不十分なのでここでまた置き換へをする必要がある。もし「議論の面白さの本質は、○○であり、ディベート型の議論で相手を言い負かすことではない(と自分は思う)。」と云ふ意味であつたとしたら、そもそもその二つは違ふ形式の議論であり、一つの形式を面白くないと書いてゐることになる。しかしながら、その對立圖は、残念ながら根本的に誤読ですのイとロの圖とは矛盾する。一方は議論と定義してゐなかつたものだと書いてあるからだ。後の記事に目を向けないでも、「勝つことだけが目的になるようなディベート型の議論」が、議論であつて議論でない一方的な言ひつ放しに過ぎないと先に説明してあつたのだとさつき書いた。だから無駄に長かつたが「勝つことだけが目的になるような」と「ディベート型の」は、繋げて「議論」に掛かつてゐるので、この二つを分斷するのは有り得ない。(これは私が今思ひ附いた説を自分で否定しただけで、誰も提唱してゐなかつた。)
ここまで「誤讀説」を固めた上で尚それを否定する訣で、最早私にとつて單純な理屈で解りはしないに決まつてゐるのだが……。
(5)
要するに「實はそれらは異なる概念ではなかつた、その主張が野嵜さんの最初の主張と合致してゐた」。「實はそれらは異なる概念ではなかつた」の部分を更に正確に書くと「野嵜さんが異なる概念としてそれぞれの存在を認める『議論』と『論爭』の違ひが、長尾さんの『イ』と『ロ』の違ひと一致してゐると野嵜さんは途中で勘違ひしたが、『イ』も『ロ』も野嵜さんにとつての『論爭』に含まれてゐた。
さう決めて掛からない爲には、先づさつきの「實は『勝つことだけが目的になるやうなディベート型の議論』が、私が一番最初に書いたやうな「議論」の意味を二つに分かつことになるとは言へなかつたこと」を證明せねばならない。が、それを論證したのが「私が一番最初に書いた」説明なのだ。一見詭辯的な言ひ方だが詭辯ではなく、この上更なる説明を今しようとしてゐる。
このやうに書いた時、「議論」は何を意味してゐるか。議論の面白さの本質と書くのだから、それは議論に當て嵌まるやり取り全てに於いて含まれる面白さを意味する。(ここで、具體的にどのやうな行動が議論に當て嵌まつてゐるかの解釋はしてゐないし、不可能であることに注意。)
同時に、議論には相手を言ひ負かす性質も存在すると書いてゐる。
その上で、「と自分は思う」により、ここで言ふ「面白さ」が自分の主觀であることを示す。竝びに、結果としては議論によりどちらかが相手を言ひ負かすことになるものの、自分は相手を言ひ負かすことに面白さを感じない意を表明する。これらを總合し、長尾さんがここで使つた議論を人が行つた結果何が起こるかと言ふと、それは○○されることと、相手を言ひ負かすことである。
これに反證しない限り、「どちらも議論に含まれるが、前者の樂しみを味はふことを主目的にするのは面白く、後者をさうするのは面白くない」と定義することになるのだ。つまりだ、さつきは「議論であつて議論ではない」と言つたが、この文では確かに「面白いものも面白くないものも議論である」と書いてゐる。それを「ロはイではない」と他の場所に書くのは反證として認められない。それは對立する主張を同時にしてゐる=主張が矛盾してゐることを指し示すのに留まる。
これは長尾さんの言ふ通り價値觀レベルの複雜な問題ではないのだ。
あとは「○○」と伏せる理由の説明が必要だ。これはそれに關する指摘を讀んで解つて貰へれば一つは解る話だ。Xは――であり、……ではないと云ふ書き方は、Xの定義を示す。ここでのXとは「面白さの本質」を示す。その「面白さの本質」に掛かる「議論の」は、「面白さの本質」が「議論」の一屬性であるとする定義を示す。今するべきなのはそれら指摘のみであるから、それを解り易くする爲に省いた。
もう一つ。長尾さんの「面白さの本質」と野嵜さんの「議論の本質」では、本質の意味が違ふ。本質と言つたらそれが持つ眞の性質だと思ふが、長尾さんの場合はどちらが面白いのか主觀による程度の問題を語つてゐるだけだ。それは野嵜さんの用法と異なるし、一般的にも異なると私は思つてゐる。だからその邊、止揚の部分も含め私には「意味が取れない」ので、そこから反論する餘地もある。
(6)
ところで、私のコメントについて。誤讀問題については野嵜さんが既に指摘をしてゐて、私はそれで十分な説明だと思つた。だから殘る閲覽者のうち長尾さんの事情に關はらない中立な人々にとつて誤讀は些細な問題であつて、それよりも重要な價値觀の問題に目を向けるべきだと思つた。だから誤讀問題は野嵜さんに任せ、コメントの「『勝ち負け』への異常なまでの執着ぶり」なるレッテル貼りをレッテルと指摘し、その原因と思はれる長文への偏見の蔓延に批判を加へた。つまり私は長尾さんに質問も直接の反論もしてをらず、「のざき」同樣に記事に關連する自分の意見を表明しただけだつた。それなのに長尾さんは質問してゐると誤解して「nkkyさん、私には何を答えろと?」と書いた。
11月9日
(7)
まだ野嵜さん側の圖説に觸れてゐないけれども……さつきの「證明」で取り敢へず十分な氣がする。だつてCは野嵜さんが勝手にしてゐれば良い、長尾さんには興味の無い話題なのだらう。さうやつて誰もCに興味を持たない現状が野嵜さんにとつて冗談ではない、堪らない事態なのは、野嵜さんの記事を讀めば解る。最う誤讀の話から離れてもう少し言へば、先の見えない人生で、長尾さんは が正しいかどうかに興味を持ち疑つたことがない、しかしそれが自分にとつて望ましい選擇だと理解出來る感覺など存在すると言へるのか。
もしかしてかう書くと「存在しないに決まつてゐる」と極め附けてゐるやうに見える人がゐるかもしれないけれども、さうではない。するならすると反證して欲しい、つまりそれについて考へて欲しいと、Cのやうな議論は正しいと主張する私はさう思つてゐるよと書いてゐるだけなのだ。

番號振り間違へてゐた。

補足。
議論の種類 | iwatamの個人サーバ
ウェブでは關る人全員が對當なので、「贊成派」「反對派」「審判」と立場が分かれることはあり得ない、よつて下で言ふ「對話」だけがある。その中で論證に據つてお互ひの間違ひは指摘し合へる。ここの解説は「全員が納得する統一された答は何処かにあると信じる人(「議論に終りがなくたって構わない」からの解釋)」に向けてその詳しい探し方を説明するものであつて、Cのやうな「議論の精神」の直接的な説明ではないことに注意。
だからウェブでは「過剩防衞」など初めから誰もしてゐると言ひやうがないのだ。
人が集まる場所として意識するならば、一人が全ての人と對話するのに適した場所であるから、なるべく多くの人に當て嵌まる指摘を書かうとする姿勢は自然である。
「C肯定派」が信じるのは「全員が納得する」と言ふより、絶對に否定出來ない答の存在だけれども、解釋に據つては同じと言へなくもないので、強引だが解説としてみた。更なる誤解を生む豫感がするが、そもそも私が誤解してゐたらそれを誰かが正して呉れるかも知れないので書いて置く。

今まで私は闇黒日記11月8日の記事を讀まずに書いたが、私が(1)から書きたかつたのも「見てゐる對象は議論」だと云ふこと。かう書けば普通、私の意見が闇黒日記と本當に一致してゐるのか、闇黒日記だけを讀んで氣附くことは無いかと少しは探して呉れても良い筈だ。それとも全然さうではなく私は私で全ての意見の全ての根據を説明しなければ「謙虚ではなく眞のファンとは言へない(ファンの振りをして野嵜さんの文章をちやんと讀まず誤讀し野嵜さんを利用して言ひたいことを言つてゐる、と云ふ意味だと解釋)」のだらうか。さうだとしたら實に嫌らしい態度だと思ふから、そんなことはないだらうと私は思ひたいから先にそれを否定する、まさかそれが「疚しい」思ひなのだらうか、それは恐ろしい……。
かうやつて自己主張しながら人の擁護までしようとするから話がややこしくなるのだが、これ、讀めないものだらうか。「何を言つても自由な場所」で印象に據る極め附けをする人に抗議するのは難しいよ。(追記)とは言へ讀む人がどれ位關心を持ちどう理解するかは豫想する必要がある。

闇黒日記平成二十一年十一月八日の記事。私の「説明」では足りないことが書かれてゐると思ふので取り敢へず引用。
「面白主義」の人が、「結論として、あれか、これか、のどちらか一方を『勝ち』とする結論は『面白くない』。對立する立場を『止揚』するところにこそ『面白さ』が見出せるのである」と主張する。「私にしてみれば」、そんな「止揚」はあり得ないものだ――が、それは、私個人の價値觀として主張するものではない、事實としてそんな止揚等あり得ない。逆に、さう云ふ止揚だけを「面白い」と言ひ、「良いものである」と價値判斷するならば、その人は、さうでない結論を出す議論を「面白くない=惡いものである」と價値判斷してゐるのである。一つの對象に對して、常に人は二分法的價値判斷を下す。「面白い・面白くない」で、「面白主義者」は「議論」を完全に二分する。そして、「面白主義者」の議論に對する價値判斷は、「面白い=良い=止揚と云ふ結論を出す」なのであるから、「面白くない=惡い=止揚以外の結論を出す」である。そして、全ての議論を、「面白主義者」はこの二分法で判定し、價値判斷する。(註、ここで言つてゐる「面白主義者」は、特定個人であるが、俺は今、名指ししないで抽象的に語つてゐる。その主義・主張の論理が、特殊であるのは、特定個人を想定してゐるからだ。だが、論理性を問題にしてゐるのだから、その特殊な理論の特殊である事を考へる必要はない。例なのだから、特殊な例である事を問題にする必要はない)
「惡い議論」の内には、「勝ち負けを目的とした言爭ひ」と「勝ち負けが『ある』けれども、正しいか、正しくないか、を明かにするのが目的である議論」とが含まれる。と言ふより、その二つしかない。私は「正しさを明かにする爲の議論」こそ「眞正議論」だと言つてゐる。それを「面白主義者」は「惡い」側に押込んでゐるのだ。これは、當人が否認しようとも、當人の論理がさう言つてゐるのだから、仕方がない。當人の意志・自覺は關係ない。論理が客觀的に示してゐるのだから。それを私は指摘しただけなのだが、客觀的な指摘をしても、主觀で否定出來ると主觀主義者の「面白主義者」は平氣で考へるし、敵身方思考しか持たない主觀主義者だから、數を恃みに「敵」である野嵜を排除し、嘲り、默らせようと陰濕な惡口を連發する。ところが、私がさう云ふ事實を指摘する事を、彼等は「卑劣」とか何とか言ふのだ。事實を指摘してゐるだけなのに、そこに主觀を見出さねばゐられない。主觀主義者は、主觀がないところにまで主觀を見出さうとするのである。それこそ歪曲に外ならないのだが、それが主觀主義者にはわからない。

裁判員制度に内心は反對してゐながら同時に、制度のPR作品に出演した人が或る罪を犯した時、その「宣傳側に損害を負はせた」罪も混ぜこぜにして問ふべきだと思ふ、と云ふ人がゐて、それは色々と滅茶苦茶だと思ふんだ。

何か書けばその中に「もつと正確な書き方があつたのではないか」と思ひ附く部分が見附かることが多くあるけれども、修正しようにもなかなか具體的な文章にならなくて困る。……つてこれぢやあまるで感覺で物事の正邪を判定出來ると私が言つてしまつてゐるみたいだ。笑。明らかに訓練出來る筈の文章力や思考力に原因があるから、多分さう云ふことではない。最初の中途半端な思ひ附きはまづ間違つてゐるものだ。着眼點がずれてゐることも多い。但しずれてゐるのではないかと思ひ附くきつかけはと言ふと自分と似たやうな意見だと思つてゐた文章を讀み直した時で、何故そこに違ひを見出さうとするかと言ふと、それは書き方が違へば意見も少しはづれるに決まつてゐるからで、何故さう判斷出來るかと言ふと經驗から來る勘だが、何故疑ひ直さうとするかと言ふとそれは興味があるからと言ふか正しさへの志向があるからと言ふか……。

11月10日
昔だつて、「議論らしきもの」を「樂しむ」より、「ホームページ作り」をして樂しむ人や2ちゃんねるに書き捨てる人、或は仕事や趣味の役に立てる爲に情報交換をする人、常時接續環境でも企業サイトしか觀ない人が多かつた。
今は2ちやんねるも寂れてネタや情報を書かうとする人も減り、本當に罵倒を樂しみたいだけの人々が集まるやうになつてゐる。
その元2ちゃんねらーが流れたのはVIPだ。そもそもSNSに時間を割くのが當り前になつた。
「面白主義」「内輪話」は榮えてゐると言へる。

11月11日
説明するのは「負け犬のする事」? - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ
長尾さんに「正しさへの視點が缺如してゐる點」は、ここでも確かめられる。
残念ながら根本的に誤読です

いや時間がかかるので、面倒くさいんです。その面倒くささを超えるほどの必要性を感じないので。

あと、自分は「遊びは本気でやらないと面白くならない」という考え方をしていますので、遊びだからいい加減だとか、そういう気持ちはまったくありませんので、お伝えしておきます。

木で鼻をくくって「また誤読です」

私は未だ、野嵜さんは私の文章を誤読していると思ってますし、野嵜さんはそうは思ってない。もうここまで来ると平行線でしょうね。「誤読か誤読でないか」に関して、野嵜さんにこれ以上、私とやり取りする気も感じませんので、きっと永遠に平行線かと。

私が先方のコメント欄に(1)からの説明を書いたら、「長文コメントは非常識」「返答するのが面倒」だけでも書き返したに違ひない。こつちの街の人とは話せるのにあつちの街の人には透明人間扱ひされる、そんな現象が現實に確認されるのだと、私は立證した。讀んでゐないだけか。せてぃや六頭は……長尾さんは六頭達が面白くない人間であることに氣が附いてゐないのだらうか。やつぱり變な敵味方思考としか。
「場の使ひ分け」は行ふ人の役にすら立たない、ごつこ遊びだ。役に立たなければ有害だ。有害な行爲をしたら後ろめたさを感じるべきだ。そして何が人に有害な働きをさせるか知つてそれを防がうとするべきだ。

「ほーむぺーじ」に書いたことを纏めてみようとしてゐる。

私を面白がつても何も出て来ませんよと云ふ為に嘲笑されても構はないなんて書いたら、その所為で嗤はれてしまつた。それで解つたのだが、私はそんな自分が人間ではないかのやうな書き方はせず、私は嗤はれるやうなことはしてゐないと書くべきだつた。私は勝手に他人が利益で動いてゐると看做してゐた。

11月13日
野嵜さんの意見は「私の解る範圍内で」概ね正しい。と云ふのが私の立場。

11月14日
ここは書き捨てられても仕方がないブログだけれども。それにしてもブログで話をしようとするのと、はてな匿名ダイアリーなんかでさうするのとは同じだ。皆書きたい事を書く爲だけに利用してゐる。きつと何かを得てゐるのだらう。しかしながら、互ひに相容れないと思ふ意見が際限なく増し續けてゐるのを見るとそれは恐るべき事態だと云はざるを得ない。

11月15日
今日の朝日新聞朝刊讀書欄で、筒井康隆氏が福田恆存「堅塁奪取」を取り上げてゐた。

【書評・感想】2004年5月

ちょっとレベルは高いけど『私の国語教室』。目に見えにくい「国語」というものが、国家のルールひとつで、コロコロ変わってしまう空恐ろしさを覚えた。「歴史的仮名遣い」に戻せ、とまでは言わないけど、最低限「漢字廃止・ローマ字採用」は防げてよかったなあ、と思う。

私の國語教室を讀んでさう思ふ人がゐるのか。
昔の人は反對しても良いが今の人は駄目らしい。「國家」は宿命そのものか。と言ふか歴史的假名遣ひが無くなつて良い物だつたとは書かないでかう書くのでは、「良識がはたらいた」(誰の?)から良い妥協案が出來上がつたと言つてゐる事になる。妥協案が良い筈がないと思ふ。
それにこの書き方だと例によつて「明治政府も國語のルールを變へた」と誤解してゐる可能性もある。さうだとすると反論する必要がある。実のところ歴史的仮名遣ひは日本語の實態を明らかにし、本來の日本語を知り得る限り歪曲しないよう先人が努めて來た成果物だ。それを一部の國民が故意に歪曲して廣めた物(現代かなづかい・現代仮名遣い)と同じ意味、同じ價値に扱ふのは無理がある。その前提の正しさを示すのが上の書評にある通り、私の國語教室に於ける「『歴史的仮名遣い』がなぜ『歴史的』なのか」の説明なのであつて、その前提を認める限り、これらの判斷を下すのに複雜な知識は必要ない筈だ。單に「複雜な知識は必要ない」と書くと馬鹿でも解る簡單な話だと嘲つてゐるかのやうだがこの場合さうではない。それこそ目に見えにくい國語に對する極端な物の見方を無意識に支持してしまつてゐると抗議してゐるのだ。
歪曲と書いた事についてだが、UKさんの場合は既に「變はつた」のが人の手による良くない(恐ろしい)歪曲であつた事は理解してゐる筈(國家がさうせざるを得なかつたかどうかは別問題として。そんな事は無いが)。
見逃してゐたが「目に見えにくい」と言ふのはをかしい。具體的に「變へられた國語」を「歴史的假名遣ひ」だと看做してゐるのだから。

旧字・旧仮名雑感---Wikipedia の議論について - insomnia
事實として、Wikipediaは編輯者達が揃つて一體の記者らしく振舞ふ場である。そしてこれはWikipediaで自己主張する者は鼻摘み者と呼ぶべきだと云ふ主張。確かにさういふ場所らしい。私も正字正かなで書きに行かうとするのは無茶だと思ふ。と、書き方から解るやうに私はWikipediaの存在自體が公正を缺く、嫌な物だと思ふが、これはこれでちやんと事實の指摘になつてゐる筈。
但し本來、著者を限定しないWikipediaを一つの著作物と稱するのは不可能だから、普通の百科事典の常識に倣つて表記の統一と言つても理由にならないと云ふのが私の立場だ。飽くまで「Wikipediaはそのやうな場所だから」と云ふ理由以外は認めかねる。
加へて。

正字正仮名 (こんな名称はどこの事典にも載っていないけど)」を使うひとがいたってよいと思う

いや安田さんが居て良いと思つてゐるのは「舊字舊かなを使ふ人(この呼び方が曖昧である事が「擬似科学批判」としての正かな派の立場 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログで指摘されてゐるのだが、今は安田さんの定義で)」だ。それが現代人にとつても正しいとまで主張する意見には他の記事でも反對の立場を示してゐるのだから。その上でWikipediaで舊字舊かなを使ふべきではないと主張してゐる訣だ。

佐藤さん、誰も「押し付けて」ないと思ふよ - 土佐(ドサ)日記 - Yahoo!ブログ
反論した方が良いのだらうか。「解り難い」「突飛・唐突」などを普通の意味で取つて良いのか解らない、何とそんな事を書く私は「天衣無縫」であるらしいのだ。讀むに讀めない。
「爺」の人は、常に何か誤りのあるらしい他人に對し唐突に大げさな襃め言葉を掛けて見せる。人が本氣でそんな事をするとは考へられない。「爺」は全ての人の常識と懸け離れた言葉の用法を是としてゐる。批判は當然許されるべきだが、言葉を間違つた意味で通用させようとするのは許されない。

「そんな人」って誰?

「お上の言う事だから素直に従うという人」。そんな人は國民に據る改革が正しい事だと主張してゐる政府には從へないだらうと。しかし「そんな人」がそれでも日本人を名乘るならば、今の政府を否定して昔の政府を支持するしかないと書いた。とは言つてみても現実として民主主義を否定する人はゐるが「そんな人」は全然ゐない。

この「洗脳」って、年端も行かない小学生に「假名遣ひ」を教へ込むといふ意味なんだらうか。

小學生もだが昔の人も今の人も「内閣告示に從ふべきかどうか疑ふ事からして非常識である」と騙されてゐると云ふ事。「昔とは違ふがどちらも日本語である『現代』仮名遣い」なる支離滅裂な説明を受容れさせる事からしてさうだと。その段落全てが「洗脳である」事の説明ではないし、段落同士は直接繋がつてゐない。

11月16日
memo:相対主義
ぎすぎすしてゐると言ふかまづ長尾さんが誤讀に怒つてゐるやうに見えたのだが。
「たまったもんじゃない」けど、私が誤讀である事實を指摘したからもう諦めは附いてゐるよ……と云ふ感じなのか? それだと後に「安心おしなさい」とまで書ける理由が私にはどうも。
正當な抗議の場合は怒りの意を表していい。人間だし。極端なのは駄目だが。抗議が論理的に正當かどうかは議論で決められる。

面白い日記を書くなら伏線でも張らないとな。