10月のメモ

10月4日
トラックバック先に関係無い引用文が載るのは駄目かも。

頑張れと言う言葉が悪いのか?

なんていうのか、被害が証明されない限り、聞いた側の落ち度をまず疑って探して、あなたが違うんだと言いだしたがる。

それは怖いぞ。間違っているぞ。

フェアな聞き手ではなく初めから、話した側の弁護人なんだ。

なぜ違うって話す側を庇う発想の習慣は自分が喋る側に立ったときの思考を麻痺させるからだ。相手がどう受け取るではなく自分の話したいことだけ伝える癖に繋がる。

言っていけないことを低く見積もり続けて、自分に甘くなる。其れで良いはずないはないよ。きっと。

確かにそんな事はある。楽をする雑談しか知らないしそれで良いと思ってしまう。改行を改変。
ところで読んでいると正しいという言葉にやや引っかかる。普通は差し迫った問題を解決する為でもない限り議論などしない。更に第三者として議論についての考えを述べる際も普通、人の頭にあるのは具体的な利害関係がある話し合いである。だからどちらの場合でも頻繁に、正しい意見であっても言うべき時を選ばなければその事が誤っていると当たり前の事が強調される。
10月5日
感情的な人に理解させようとするのは感情的な行為だが、それでどちらの言い分が正しいのかを検討出来ない訳ではない。
ところで感情は誰にでも何時でもあるのだから感情的という表現は的確ではない。今の場合、理屈の解らない人に何時までも言葉で説得しようとするのは理に適わない短絡的な手段だと言った方が正確だ。但し説得が重要な目的ではない場合どうでも良い事だ。
つまりその、手段や方法に限って興味が有る人は勿論、そればかり気にしているのではない人でもやり方について主張する事を道理としているようで、それが偏っているように見える。
「たとえ正しい意見であろうとも〜」と言う時点では議論によって導き出される正しさなど眼中に無いからこそそんな表現が出来る訳で、しかしそんな前置き無しで態度だけ批判すれば良い筈なのだが……最初からこんがらがっているので中止。

個別に例を挙げなければ、「話し相手を想定出来ていない(独り善がりである)」という批判は不可能。
しかしそう当事者に向って主張したらまず的外れに思われるだろう。それであなたはどちらに付くのか、今はそんな場合ではないだろう、結局どうすれば皆満足になれるのかと。だから差し迫った問題の無い時に書いて置く。そして私はその言葉使いこそが気になる。
よく分らなくなってきた。福田さんの二元論だっけ、気になるな。

客観的な真理の追求とか言い出すと暇人の趣味に聞こえる。けれども、軽い気持ちだとしても信じていた事が大嘘だったら嫌な物だ。だから誰にとってもそんなものがあれば嬉しいと思う。
でもそういう単純な好奇心に気付くと虚しい。

客観的、理論的で且つ実生活にも影響を与えるであろう人生哲学はあるのだろうけど。
自分が納得出来て人に迷惑が掛からない考え方なら、勝手に信じていて良いのだろうか。無宗教だとすると、そういう代物を哲学や幸福論と呼ばざるを得ないのだが、それは別に学問でも論理でも何でもない。いや呼び名は私が思い付かないだけかも知れない。
それにしても自分が納得するかどうかが問題なら、自分の判断が信じられるという前提がある事になる。
哲学者は差し迫った問題を扱うのに普通にそう言えない。

正字正かなに變換してみる。

日本建築は特異なのか
チラシを讀んで面白さうだと思つたのに結局行かなかつた。まあ私が見ても殆ど解らないだらうけど。

建築物の性質は國境で分けられるとは言ひ切れない。日本語は日本列島に住む人だけの間に突然生じたとは言へないが、日本語とは何なのかは日本語史書を讀めば大體分かるとしか思へない。何かを讀んでこれは日本語だと判る。
そして一度存在した概念は、何時まで經つても存在する。
日本語を使ひ變化させる人が居なくなつたら日本語と云ふ概念は消え去るだらうか。實際に使はれる一つ一つの日本語文が日本語とは何かと云ふ意味を變化させ續けるとは考へられない。何故なら昔の人も日本語を使つてゐたのだから。
だから殺せる物なんかではない。起源は或る程度までしか遡れないにしろ、今現在その不可思議な日本語に依つて生きるしかない。
DVDのやうに隔離して保存出來るのは遺物その物だけだ。

常用漢字は「義務教育で教はる漢字」だと思つてゐた。所謂ゆとり教育。 「現代仮名遣い」が政治的に定められた物だとは知つてゐたつけ。知らない訣ではなかつた氣がするがそれ位に無意識で、少なくとも中學で古文を習ふまで假名遣ひといふ言葉を知らないも同然だつた。中學でも昔と今とにはつきりした線を引けるのはをかしい事に氣が付かなかつた。
現代の假名遣と云ふ言葉。確かに敗戦で時代が変わったとは言え、現代とは常に未だ客觀視出來ない存在で、人々の手元に何が殘つたのかが解つて初めて過去を過去と呼び得る。

闇黒日記(平成二十一年十月四日)
――となると、基準も無く好き勝手に書いてゐる多くの人々が、歴史的假名遣を非難・攻撃するのは、歴史的假名遣が秩序だつたものである事・そもそも規範として「權威」である事を認め、それゆゑに「權威に對する反抗は現代に於ては善である」或は「我々の自由を奪う憎き秩序は破壞してしまはなければならない」と云ふ今時にはありがちな子供つぽい價値觀に基いてゐると見て良い。
私も押し付けや壓制なんて言葉にばかり敏感で、たゞ「常用漢字」「現代仮名遣い」は言はれてみれば何だこりやあとしか言ひ樣の無い代物にしか見えず、ウェブでなら表現なんかどうだつて良いのだから正字正かなを使ふだけだ。けれども同時にそれ以外の理由が欲しい。
神社新報社>歴史的仮名遣ひ

文章は今生きてゐる者だけに通ずればよいといふものでなく、百年も千年も二千年も、もっともっと後々の人にまでわれわれの考へを伝へていく役目を持ってゐます。

われわれは今、わづか四、五十年前の書物が原文では読めなくなってきてゐる事実に、目を背けてはなりません。われわれの時代に、そんな軽率なことを許していいのでせうか。

私は不便だから駄目だとは言へるが、輕率だから許してはならないとは思へない。しかしさう言へる方がまともだと思ふ。

松原信者とか言ふけれども、「信者」は一つの意見に固執する存在でしか有り得ないと判斷するのは妙な事だ。考へ方や捉へ方ばかりではなく樣々な人の優れた意見を良く知り傳へるから尊敬される場合もある。
少なくとも2ちやんねる用語はさういふ意味に違ひない。しかしずつと前から一般的にそんな認識だつたと思ふから一般的に言つてそれは偏狹だと今は書いた。

古い言葉を擴大解釋した意味が廣まつた時、それが言葉の正常な變化だと認められる根據は何なのか。
別に正しいなんて誰も言つてゐない? それは間違つてゐると主張する事になる。それが極端だとしたら、或る程度異常であつた場合はどれ位許されるべきなのか。私は誰にでも内輪話として諒解されてゐる時は許されると思ふ。ところで許されないからと言つて排撃「する」べきだ等と言ふ積もりも無い。たゞ容認「される」べきではないと云ふだけの事だ。

この辺迄、日付をちやんと覺えてゐない。

10月9日
Kirokuroの毒吐き空間
野Qの嘘八百と題し、闇黒日記を店仕舞ひするの記の「私は最う何も言ひません」の項を引用して「てな事を言っておいて、一年も経たぬうちに何喰わぬ顔でブログを立ち上げ、今に至るのは知っての通り。」と嘲笑してゐる。そもそも嘘八百だから何なのか解らないが野嵜さんを嘲笑するブログとあるので嘲笑をしてゐるのだらう。
もし當時それを讀んで怒り出す人や代辨者にならうとする人が現れるような反應らしい反應があれば野嵜さんはそのまゝ默つてゐたかも知れない。しかし言つた事が誰にも聞かれなかつたら最う一度言ひ直すのは人として何もをかしくはない。現に今ウェブ(に於る日本人)批判をし直してゐる。
つまり默ると言つてもそれまたスルーされた(序でに粘着も去らず逆效果だつた)。だから默るとだけ言ひ續けるのを止めた。默ると言はない事が誰に出來るだらうか。
一方ウェブで物を言ふ事に對する考へは變はらずに、スルーされたまま言葉通りオフラインに留まり続けるのも有り得るしあつた事だ。但し人は、話の通じる人々にと言ふかさういふ存在を全く期待しない訣には行かない。だから「復活」したのは當然だがしなければ「店仕舞ひするの記」の言葉を裏切る事になつた訣ではない。
よつて野嵜さんのこの文章は今の發言と矛盾してゐない。Kirokuro氏こそ野嵜さんの今現在の選擇に拘つて性急に人を裁いてゐる。私は辻褄合はせをして「嘘八百」とは言へない證據を擧げただけで、野嵜さんの動機や正誤を斷定してはゐない。

人もまた一度存在した事實は否定出來ない。默つても無駄。
あ……正當である理由を推測して見せるよりも一體何處が不當なのか訊ねる方が先だつた。それはもうされてゐる。私自身が字面に拘り易い人間だからこんな今更な話に反論した。
これはKirokuro氏の言ふ機械的な意味での言行一致にも反してゐないと云ふ反論だが、默ると言つて默らない事が責められるべき時と言へば、それは或る言動の誤りを反省して「最う繰り返さない」と誓つた人がそれを破つた場合くらゐしか思ひ付かない。しかしそれはそんな表に出す必要の無い誓ひをしたのが問題。

最う書く事が無い。と言ふのは書き出しの文句。私は文章を全然書かないし良く考へる事からして困難に感じられる。正字正かなを支持すると一言で濟む主張をしてもそれで何をするんだと思つてゐた。それは今も思ふ。仕方が無いからそんな事を書く事にした。私はどちらが合理的か程度なら理解出來さうだが、何を以つて判斷すべきかは全く解らない。道徳觀念すら持つてゐるのか疑はしい。持つてゐさうで自分より「マシ」に見える人が居るからさう言へるのだが。自分に何か價値が無いのは良くないと思ふし、自分に思ひ付くやうな價値が有つても他の何かが足りないと思ふ。まあそれで色々理由は有るにしても普段してゐる事は何なのかと云ふと下らない事には違ひない。こんなのを書いて滿足したらもつと酷いけれども。
私は默つてゐる事の害惡を少し知つてゐる。自分の爲に默つてゐたつてどうしやうもない。缺陷は誇れないにしてもそれを隱すのも誰の爲にもならない事だけは確かだ。
にしても最う書く事が無いなんて勝手に思ひ始めるのはシェイクスピアの眞似ぢやあるまいし、未だ書くべき事は無限に在ると思つて置いた方がマシ。

未だに野Qつて。

言葉を重ねるのは自分で信じてゐない證據なのかね。だつたら何なのだらう。

默るのは粘着への抗議でもあつたのに今でも粘着に觸れてゐるのが嘲笑ふべき行爲だとしたら、粘着であるKirokuro氏は自嘲してゐるに過ぎない。

10月10日
今更「本を読む本」の必要性を感じ出す。

10月11日
HTMLを先に知つてゐてもはてな記法を好きで使ふ人がゐるんだな。それと同じやうに日本語には二つの表記があつて面白いとか便利だとか思ふ人がゐても不思議ではない。

思ひ付きには檢討の餘地があり、反省の必要がある。だからそれを忘れて無意識の裡に抱へてゐるか公開するかに大した差は無い。忘れてしまへばその思ひ付きによる弊害は偶然生じないかもしれない。公開したら自分と同じ誤つた思ひ込みをする人が生まれるかもしれないし、正しい批判を受けて有益な結果を生むかもしれない。
「誤つた思ひ込みは存在した時點で害である」とまでは思はないのだが、それが何時惡さをするか分からないし、同じ人間なら似たやうな誤解をする人はゐるからそれが正されないだけ有害な結果を生みかねない。

淺い考へからして一體何に支へられてゐるのか解らなくなつたら不安になる。

孫引き。
『日本の心』より
保田
幕末一般の人々が文法の整然とした秩序を自覚した時、言葉は神のつくつたものといふ自覚が起こるのです。
そんな境地が在るのか、と言ふかそんな樣な自覺をした人が總ての正字正かな派なのかなと思つてゐた。しかしこれは違ふだらうと思つた物を使はないだけで罰當りな訣でもない筈。 とは言つても、さういふ自覺をした人を馬鹿にしたり、遠く離れた古代人として無視して良いと思つたりはしない。
學校では正字正かなを教へて、中學邊りで昔の假名遣ひである「現代仮名遣い」や略字の讀み方だけちよつと教へれば誰も大して不便な思ひをする事無く國字改革は改められる。しかしそんなやり方をしてもまた子供は大人が間違つてゐると思ふだけだらう。

「死者は心の中に居る」が常套句である今、弔ふ=死者の靈魂を慰めると云ふ言葉は生きてゐるのか。
近代日本語に弔いを 2.0
それともこの場合悲しみの意を表してゐるのか。或は懷かしんでゐるのか。それは弔ひと言ふより偲びか、いやそれも違ふ。「弔ふ」も「偲ぶ」も死んだ者がどうなるのか見解(信仰)が無ければ言ひ出せない事だ。
亡びるの關連語として死ぬ、その連想で死者を弔ふと云ふ言葉は出て來る。只の連想だが。自國語の滅亡に對して思ひさうな事と死者への弔ひの気持ちは「自ずと」は結び付かない。どうして人間や靈魂に喩へられるのか私には解らない。
親しみを込めて日本語を語る人がゐるのは知つてゐるのだが。「なので、これからしばらく、自分の思い出の中から、今失われつつある世界の姿を探ってみたいと思った。たぶん、近代日本語の喪失を弔うというようなことをするために必要な迂回路がそこにあるような気がする。」知的な探求がどうやつて宗教的な行爲に繋がるのか。近代日本語が死んだと知つてゐるなら弔ひとは何なのかが解らないし、死んだかどうか解らない物を弔ふと言ふのも解らないし。

「ブログのタイトル」をちよくちよく變へてしまふ。

闇黒日記の2009年9月18日。
他人の間違ひを指摘し、攻撃する――それは常に自分に跳ね返つて來る事だ。悧巧な人は他人を批判しない事によつて保身をはかる。だからこそ、自分を律する爲には、他人を批判し、自分に批判が跳ね返つて來るやうにしなければならない。もちろん、他人は、受けた批判を跳ね返す事で、保身をはかりつゝ、反撃して來る。「反撃されるのが嫌なら默れ」と彼等は言ふ訣だが――「嫌」な氣分に追込まれた茲數年の私は、彼等に負けてゐた事になる。彼等の價値觀に屈してゐたからだ。だが、彼等の價値觀こそが間違つてゐるのであり、絶對に屈してはならない。
反撃される事を恐れて他人を批判しないのは、罪だ。他人を批判するのは、惡い事ではない。他人を批判しない事こそが惡い事なのだ。その惡い事を推奬する連中を批判しないで默り込む事は、それこそ立場的に矛盾してゐる。だから私は默らない。
この邊を讀み飛ばしてゐた事に今気附いた。
あと「嘘八百」が何時書かれたのかも知らない。

10月12日
「日記モード」に變へてみた。
リファラスパムの表示を消した。

10月14日
正字正かなは正しいのかどうかなんて事は私のやうに何も持たない虚しい人間だけが勝手に關心を持つてゐれば良い(持たなくたつて良い)事なのか。さうだとしたら私だつて無視するよ。趣味や便宜上の問題に過ぎないならさうと理由を言つて貰ひたい。

10月16日
自分には解り難い重要な事が在ると思ふ。そのやうな事を知らないのに何でも知つた振りをしてゐたくない。

人物のページ
池田先生はこんな話をしてゐるのか。偶然見付けただけで全然讀んでゐないのだが。
普通の人でも普通に讀める話題でありながら突つ込みどころも有りさうなのだが(何でも佛教に繋げるし)その邊で論爭になる事つてあるのかな。

相當變なアンチ以外誰にも觸れられない信者は、延々同レベルの事を主張するしかなくなつてしまふ。

議論へのご意見・ご感想
えええ、これ野嵜さんの事だよな。さうではないかもしれないけれどもさうだとするととても無視出來ない。さうだとして七鍵さんの方が正しいとしたら、それは私の物の見方を變へる大きな事だ。だから利(自分の爲)によつて動いてゐるには違ひないのだが、理によつて結論を出したい事にも違ひないから前者は問題ではない筈。
「野嵜さんの事を言つてゐる」説の傍證。
「もう良い加減面倒になつてきたのであらかじめ言つておくと」から七鍵さんは現在面倒な思ひをしてゐる。
そして「個人のwebサイトであつても」に繋がるのだからこの記事は私事の陰口ではない。
つまりこゝで七鍵さんはRFC 7keyに最近、言及してゐる人に向つて話し掛けてゐる。
その内、主に議論について書いてゐるのは野嵜さんだけ。野嵜さんは「説明をしないことは無責任なことだ」とは書いてゐないが(責任なる言葉は安易に使へないと何處かにあつたやうな)、「正しさを説明できない・合理性を説明できない事を」「好き勝手に言散らすのは」良くないと言ふやうな主張をしてゐる(自分にばかり都合のいい考へ方)。
これが正しければ何なのかと言ふと、名前を出さなくたつて七鍵さんは野嵜さんと言ふ特定の人に會話を試みてゐるのと同じであり、この記事はそれ自体が矛盾してゐると云ふ事。
あゝ、皐さんも含むかもしれない。最初に電車の乘客を擁護して來たのが他人の事に對して怒るクレーマーと言ふ事か。さうだとすると今まで「返信」してきたのに今から名前を擧げないのは解せないのだが。しかし、どちらにせよそんなに酷く怒つてはゐないだらうに。人を擁護する時と言ふのは、傍觀者のまゝではゐられないからするのであつて。
まあこれらは傍證だから、今は確實に言へる事を書く。
「お互ひに認め合つてゐる」。お互ひの何を認め合へば良いのだらう。「認めてもゐない輩から」。一體何を條件に認めるのだらう。その條件が公正でない場合は、七鍵さん含め全ての人がそれに從ふべきではない。何故なら公正でない=自分に好都合な條件を相手に課して良いならば最う言葉を使ふどころではなくなつてしまふから。
と言つても、それで論者同士が認め合ふとしても今度は議論が成り立つ事に何の意味があるのか、どう有意義なのかが書かれてゐない。これは議論についての記事ではない。最初の一文はその後と何の繋がりも無い。その後は七鍵さんが認めてもゐない誰かからの被害報告と、自分の對處は雙方にとつて有益との説明、更にその人を何らかの(つまり不明な)根據でクレーマーと判斷し、何故か知らないが容赦なく話を打ち切らなければならないと云ふ突然の「であるべき」論で終はつてゐる。
「たいてい」から「まともに相手をする氣分すら起らない」迄、これこそ誰が何についてそんな態度を取ったのかも書かずに怒りだけを撒き散らしている。本当にそんな事実があったのか閲覧者には分からない。
何で會社の話が出て來るのか解らない。營利目的でサイトを運營してゐるのなら解る(それでもクレーム處理擔當を自稱するのは拙い)。「自身のためにならない」客=閲覽者にはクレーマー對應……適當にあしらふのがお互ひのためと言ひながら相手の爲になる理由が書かれてゐない。
「淘汰されるのは私なのだから」。何の事だらう。人は至らない事があつて結果として何時か亡びるから他の人間に對して何の義務も無いと言ふのか。クレーマーの何が惡いのかを示さない限り自分は從ひたい事にだけ從つてゐると言ふ事になつてしまふ。と言ふのは兎も角、この部分以外どう見てもクレーマーに問題が有ると書いてゐるとしか讀めないのに(何よりクレーマーだし)、自分の問題が何故自分の正當化に繋がるのか解らない。私には自分の缺點をどうしやうもない物だと簡単には言へない。

續き。話が通じない場合は確かにある。けれどもそれは論者の落ち度が原因だと判斷するには證據が必要だし、能力の少ない人に對して自分とは會話をするにも値しないと見下す事は許されない。この相手には永久に通じないだらうと簡單に判斷出來る訣でもない。
私が七鍵さんに非難された電車の乘客でなかった事に必然性は無い。

10月19日
態度へのご意見・ご感想

が、この自身の利ばかり貪る輩は、あたかも自身の價値観を七鍵以外が皆感じる價値観のやうに喧傳し、あたかも自身が虐げられてゐる者の味方のやうなふりをして、自身を正義漢だと見做して悦に入つてゐる。私はこの態度に苦言を呈してゐるに過ぎない。別にこの讀解力がない輩がどこで勝手に自慰行爲をしようが、そのやうなことはどちらでも良いのだが、自慰行爲にトラックバックといふ形で付き合はされてゐる私の苦勞も、こゝの讀者には察して欲しい。トラックバックとは、大きく分けて、「他の文章と關聯のある文章を書いた」か「他の文章に對して何か言及をした」ことを明確にする機能である。自慰行爲のために使ふ機能ではない。

これは私にも含みを持たせてゐるんだよな。さうでなければ誤解を防ぐ爲にさうでないと言ふだらう。
態度だけに苦言を呈するのは不當である。犯罪のやうに行つただけでまづ許されない事をしてゐると言ふならまだ解る。それでも多勢の證人がゐる現行犯にだつて有罪判決は必要だ。或る人が虐げられてゐるかどうか、味方のやうなふりをしてゐるかどうか、自身を正義漢だと見做してゐるかどうか、悦に入つてゐるかどうかは或る程度、發言から分析可能である。と言ふか七鍵さんの分析結果がそれなのだが、他の人のそれは違ふ。その時どうするか。人間は誰でもより正しい方を探す。それは價値觀ではなく事實として認められる。正しく探せなければ勝手に忘れて知らなかつたかのやうにするか勝手な決め付けをしてしまふ。

私がトラックバックを送つたのは、たつた今議論が進行中なのに誰も見てゐない所で書くだけでは傍觀者としての態度を表明するだけの獨善になつてしまふと判斷した爲だ。議論を山車にして有益な事を言へるなら別だがさうではない。
私が一貫した主張を出來てをらず、全體として言ひたい事を言つてゐるだけなのは認める。しかしそのまゝで良いとは思はない。それに七鍵さんと似た樣に自己の利益を求める爲の論理以外なかなか組み立てられない事を認める。しかし事實として私はその論理だけに從つてゐるのではないし、言葉の上でもそのまゝで良いとは思はない。

10月19日
含みは入れる物ではなく持たせる物ですね。七鍵さんご指摘どうもです(妄想)。
Kirokuroさん、前に私が批判した文章を消している。もう忘れてくれと言う事なんですね(妄想)。

名前はnkkyとかnkとかでよろしくです。

世界図書館のノート作者樣へへのご意見・ご感想
私が中途半端な事を言ふから七鍵さんの味方だと思はれたんですか。敵味方とか言ひたくないですが皐さんや野嵜さんに酷い事を言つたり無視したりするのに比べて態度が違ひ過ぎる。
私は論理(考へ方)が拙いと言つてゐるのであつて態度が拙いとは……「駄目な論理を示す態度が拙い」とは言へるが。しかし事實として私は七鍵さんの罵詈雜言を浴びせられるに値するやうな人はゐないと言つて正義の味方氣取りがしたい訣で。私が何も書かなかつたとしてもそれが正しいのだが。
と言ふか餘りに酷い人間が居ても猿とか言つちや駄目です。

七鍵さんは返信してくれなくても良い事だが(總てさうなのだが)、七鍵さんは私に含みを持たせてゐなかつたから、それを前提とした「態度だけに苦言を呈するのは不當」以下の反論は無效になるのだらうか。反論としては無效だが、批判としては今も有效である筈だ。客觀的な事實を求める人間にとつてそれらに決定的な違ひは無い。

私は七鍵さんのやうな「根據が無いから解らないが言葉遣ひからするとどうも否定的・侮辱的な意味を持たせてゐるらしい言葉」を頻繁に使ふ人は、結局人の發言を讀んでも印象的な言ひ方しか頭に入らないのだらうと經驗から判斷する。普段はその手の記事を見かけた場合、真面目に讀まないでスルーする。誰の味方でもない冷たい傍觀者はゐるに決まつてゐる。
とこんなむかつく書き方を自然にしてしまふ。被害妄想とか馬鹿とかはつきり指摘した方が嫌味ではない。と言ふか皐さんや野嵜さんは根據あつてそれらを指摘してゐるだけだから問題無いのだが、それを解つてゐて貶し言葉だと思ふなら思ふ方が偏見を持つてゐる事になる。妄想する人=人格障害者ではないし人格障害者こそ貶めてはならない。
例へば。「さぞご立派な方なのだらう」は皐さんを散々貶している事から嫌味だと解るが、それ自体何を言つているのか解らない。「悦に入つてゐる」事に對しどんな價値判斷を下してゐるのか七鍵さんは書いてゐない。即ち何を考へてゐるのか解らない。「不滿を表明してゐるやうな論調を押しすゝめてゐる」、かう云ふ事を書くのが、正しさに興味が無いと言ふよりは言ひ方にしか著目出來ない證據である。何故なら事實を指摘する反論のやうで具體的には何も指摘してをらず論理になつてゐないから。「印象は決定づけられた」。人は變はり得る。印象など論外だし證據があつても勝手に見切りは附けられない。

私はもつとまともな哲學が欲しい。私ほど惡質な人間は居ないからそれをどうにかしたい。
人權とか正義とか虐めは駄目絶對とか言はれてもよく解らないけれども、實際の人權侵害に當て嵌まる虐めを見て許せないと思ふ正義感は少し位ある。しかしその感覺を支へる何かが無ければ、結局自分の利害に一致する時しか人助けをしない卑怯者になつてしまふ。

正義の味方氣取り再び。人は正義に味方しなければならない。
相手に事情があることも考へて當然なんだ。七鍵さんだらうと誰だらうと落ち度が無い乘客に文句を言へるほどご立派な人はゐない。しかも七鍵さんは保身の爲に陰口してゐて、その所爲で誰もが事實を確認する出来ない。それら自分勝手な言動を七鍵さんは反省してゐない。反省してゐる人に皐さんと云ふ他者の人格を論う餘裕は無い。
事實を確認出來ないからどちらが惡いか判斷するのは極め附けであるならば、最初に極め附けをしたのは七鍵さんの方だ。現場に立ち會つた事は何の證據にもならない。寧ろ尻を摺り寄せる癡女など滅多に居ない事は明らかだし、曖昧な事を愚癡として書く人が信用出來る證人だと認めるのは難しい。何より常識ある人間は些細な事で他人の是非を問はない。七鍵さんに據れば私は遊んでゐるさうだが、人間のしかもどうでも良い他人の人格を論うのは殘虐な行爲である。私が偶々他人事に無視出來ないでゐる事をそれと同種の自分勝手な遊びとまで言はれたくはない。公開の場で他人と身内の境界などどうでも良い事だ。そもそも一般論を言ふべき場なのだから、主觀を書き綴るのは自由でもそれに一般的な問題が有れば批判も自由。
人格攻撃は止めるべきだと言ふのが人格攻撃である筈が無い。

助ける積もりの無い他人に言ひたい事を言ひ、それを助言と稱して悦に入る惡人に對して善人は「正義を振りかざすな」と批判して來たが、まづ「それは助言ではなく自慰行為だ」と指摘した方が良いと思ふ。

「自分で自分の言つてゐる事が解らなかつた」訣だが、私は「哲學」の質が氣になるだけで價値觀は當然持つてゐる。

ご指摘の通りです、言ひわけのしやうもない。皐さん以外の讀者の目をつひ忘れてしまつてゐました。

え。いやいや。まさか皐さんと本當に一對一だつたら構はず言つてゐたと言ふのか。そもそも人の目が問題なのではないし。七鍵さんの罵倒の酷さについては野嵜さんがもう述べてゐるのだがそれも忘れてゐたらしい。
……あー、うん。僞惡者より僞善者の方が良いつてかう云ふ事か。
私は最初から皐さんや野嵜さんと大體同じ意見を書いて來た積もりなのだが。同じ事を言ふ人に違ふ態度を示すのはをかしい。違ふのは、私が「自己批判」してゐる所で、印象も何もそこを七鍵さんが自分と同じ意見を持つてゐると見做したのは明らか。
しかし人間は自分を憎む事は出來ても否定まで出來ないのは明白である。
私は正義を信じてゐるにも拘らず信じられないかのやうな、しかも言つてゐる事とやつてゐる事が噛み合はない事を自覺してゐるかのやうな事を言つたが間違つてゐた。
自分の印象で以つて價値判斷をして良いと信じるのは批判の否定である。印象しかも第一印象でその人に對する態度を決めるなんて、しかもそれが人間の自然な性向である=當然取つて良い正しい態度であるなんて飛んでもない。人間全てがそこまで馬鹿な訣が無い。全て自分竝みの人間だと思ふなんて馬鹿だ。さて今、私は猿のやうに目を剥いて以下略して怒り散らしてゐるがこれで印象が變はつても變はらなくても七鍵さんは嘘吐きだ。

10月21日

私がnkkyさんを「はつきりさせる方」と見做したのは、"正義の味方氣取りがしたい"とか"正義の味方氣取り再び。人は正義に味方しなければならない。"との態度です。私も正義の味方氣取りだからこそ、nkkyさんに親近感を持つたのです。自分が正義だと見做すものについてとことんまで説明をする、私はそのやうな態度が大好きです、例へそれが私への批判であつても。

だから。七鍵さんは、人は正義の味方を氣取りたがるが實際なれはしない、しかし「氣取りたい(そして悦に浸りたい)」と云ふ欲望を顯わにする態度は大好きだと主張する。何でそこまで自分勝手な欲望を讀み取られなければならないんだ。人は獨り善がりな欲望を捨てられない、しかしそれだけを滿たす爲に生きる存在でも、そんな事の爲にしか生きられない存在でもない。そして誰もが正しい事を重んずるべきで、それを目指すのは七鍵さんが好む欲望を滿たす行爲とは違ふ。今は樂しむべき時ではない。
しかし私のも含め何で樣々な批判を無視して私を嫌ひではないなんて言ひ出すんだ、皐さんと野嵜さんは曖昧で態度に誤魔化しをしてゐると言ふのか。人にどんどん濡れ衣を著せてゐる事に何故頭が囘らないんだ。「自身の主張をはつきりとさせる」「態度を誤魔化してゐる」事が「嫌ひにならない」本當の根據ならば、皐さんや野嵜さんへの態度は有り得ない。だからそれは嘘だ、さうでなくても勘違ひによる極め附けだ。一部が誤つてゐるならば全體の印象とやらも誤つてゐてをかしくない。
これは七鍵さんへの問ひ掛けではない、七鍵さんのやうな言動への批判である。七鍵さんは飽くまで一對一の會話を樂しんでゐる積もりでゐるし、樂しみの爲以外に何も書きたがらないのは承知してゐる。(しかし樂しみを求める人だつて他人を樂しませる事に價値を置くのだが忘れてゐないか)だがそれを今まで解つてをらず、「"七鍵さんは返信してくれなくても良い事だが"と仰られてゐたので、特に返信をするつもりはありませんでしたが」なんて書いてゐる。返信してくれなくても良い理由は私の氣持ちから發せられたのではない。それは七鍵さんへの私信ではない。さう書いたのもまた批判である。厄介な誤讀だ。七鍵さんは文章力や讀解力を批判されると言ひ返すのが樂しく感じ、また言ひ返すのはnkkyに付き合はされてする事だとも思ふ筈だ。それは矛盾してゐるし間違つてゐるしさうでなくても今までの發言と矛盾してしまふ困つた事だ。
七鍵さんは少なくとも電車の記事から全ての發言を撤囘しなければならない。

10月25日
ちやんと擁護だけをするべきだと氣附いて批判したら無視された摸樣。
七鍵さんは自分の感性で正しい判斷を下せると信じてゐるが、他人に向つて「あなたの文章が私の琴線に觸れた」なんて臺詞は物語の美青年等が言ふギャグとしてしか通用しないと私は豫想する。總ての人の感性を尊重するべきと云ふ事は多數決が正義と主張する事になつてしまふ。

9月のメモ

月が変わったので分けてみる。
私はやりたくない事の言い訳以外に何もしていない。何の所為かは兎も角何も入って来ないのは事実なので代わりに吐き出してみる。インターネットのしかも常時接続環境など最近出来た物だからそれにわざわざ乗る必要など全然無く、乗せられているだけなのだが。



正字正かな」は正しいような気がする。「常用漢字」「現代仮名遣い」は「ボクと魔王」の「分類表」にそっくり。ネタバレ。
Wikipediaの現代仮名遣いの項、現代仮名遣いが正書法であると最初に紹介して置きながら、批判意見ばっかり載せている。そして時々擁護に繋がる。一人の記者が大筋を書いていて、欠陥は多く指摘されていながらも現代仮名遣いは確かに存在している正統な存在であると結論付けているかのように見える。それがもし正かな派の人が、載せて許されそうな程度に批判を紹介した振りをしているのだとしたら逆効果だろう。批判なんか無視して世の中回っているのだから、参考文献など示されても趣味の人以外読む価値の無い全然大した事の無い物のように見える。と言うかそんなのは正かな派のする事ではないだろうからそんな事実は無いと思うが。Wikipediaは色んな人の意見がごちゃまぜになっていて批判出来ない。ログなんか見ていられない。筆者の名前を一々示せばいいのに何か不都合でもあるのだろうか。記事が一塊に見える事への拘りは何なのだろう。

Wikipediaには書かれていないけれども洗脳だから嫌だよ。日本の政治による表記の押し付けは戦後から始まった。昔は反対によって取り下げられた改革(案)ならあった、だが当時の仮名遣いに「反対」した人は居ない。こちらの方がより正しいと考えた研究者に従う人は居た。それにまた異を唱える研究者も居た。それは従わされているとは言わない。現代仮名遣いは我こそが現代の正書法であると名乗りを上げている。「現代」を名乗られたら「今から永遠に」という意味だしか考えられない。幾ら改正を重ねても昔の方が正しい場合もあり得るとは絶対に認めないと宣言している。若しくは我こそが永遠に正統な歴史的仮名遣いの後継者であると謳っている。改正する度にそう言う。とてもおかしいが現代と言ったらそうなる。しかしどうしてそんなに権威的に振舞うのだろうか。仮名遣いに歴史的と名付けたのも現代仮名遣い主義者である。まるで日本語に真の仮名遣いが二種類あるかのような言い方をなぜし始めなければならないのか。その強引さと性急ぶりを見ないで二つを同じ物として対比したり、正かな主義者だけにどうこう思う所があるのはおかしい。
制定にしても告示にしても政策ならば、施行後に生まれた者であろうと鵜呑みにしてはならないと誰だって言うだろう。現代仮名遣いは中途半端な表音化であるし、表音主義は突き詰めても発音記号にしかならない。
或いは面倒臭い事を理由に正当化してはならない。それは改革が行われなければ正しい方に従っていたのにという事だ。つまり正字正かな派と同じだ。それなのに正字正かなの支持はしないとなると、それは単に今は亡き改革者に責任を押し付けているだけであって、実はアンチ現代仮名遣いの立場であると言える。
それかもしかしたらお上の言う事だから素直に従うという人がいるかも知れない。だが従う相手の国語国字改革者達は、名前を見れば解るように改革を是としている。そうなるとそんな人が従うべき仮名遣いは改革以前の人が従っていた物しか残っていない。

英語に於けるhistorical spellingとphonetic spellingって何だと思ってググった(でもすぐ諦めた)。昔の2ちゃんねらーは今と変わらないな。2ちゃんねらー臭さがなかった人は今は消息不明だったり、オフラインで何かしているらしかったり。

他人の真似ではいけないとすぐに思い当たる人は結構居るらしい。勝手に括られたら適わないだろうが私もその手の人間だと思う。しかし駄目なのは学習不足だからだと言うか……。

ただ嫌なだけでは「我慢が足りない」と言われても反論出来ない。きちんと疑わなければならない。
我慢出来ない事を、辻褄を合わせながら書ければ正しいと言えるのだろうか。真剣になるべき時にならなければいけないしそれだけでは立派と言う程でもないし。

自分以外にはどうでも良さそうな話。そういうのは自分にも役に立たないらしい。
現代仮名遣いを擁護し切れそうにないからと言ってさっさと逃げてしまったら、今度は知らなかった振りをしている事になる。言い換えればそれは無言の主張、「皆と同じで良いではないか」という非合理的な主張である。「それでも皆が信じている」、それは事実だ。もし突然、誰も気付かない内に現代仮名遣いや常用漢字その他を廃止すると官報に書いてあったとしたら、それは誤りとして取り消されるだけだろう。それを機にそれらを疑いだす流れなど起こらないに決まっている。せいぜい正字正かな派のテロだったのではないかと粘着アンチが騒ぐかもしれないがそれは今でもそうだ。……変な喩えだった。正字正かな派は実績などに関係なく、いやあればあるだけスルーされている、それが証拠だ。
言葉の例から察するに今の人は思っているより論理的ではないのではないか。魔法にかかっているような気がしないでもない。「分類表」。またネタバレ。日本人が想像するような「お役人」達が、本当は在りもしないけど誰もが信じている王家とやらに従い分類表を管理していたりとか。王女様には天の声を聞く力があるとかいう従者の適当な説明を皆が訳解らなさそうにしながらも取り敢えず受け入れていたり。昔は「魔法っぽい物も全て技術という事で説明出来そうなな現実的な世界なのに分類の力の源だけは謎過ぎる」と思っていたのだが事実はゲームより奇なり。あれRPGでなくてよかったなー。

君は○○なのかではなく私は君が○○なように見える、だろう。君は○○するかではなく私は君に○○して欲しい。誘いなのに来られるかいと問うのは何故。

「生きづらい」って何が辛いんだろう。AC云々の用語だったような。
そう言えば「世知辛い」も良く解らない。もう古い言い回しだろうな。
「情けない」の使い方が今一つ解らない。読めば何となく解るけれども自分で使えない。「情」の意味からして解らない。情けない事に。

こういうの見るとどうも。
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/30636902.html#33276417
昔居たらしい近所のおばあさんのようなフリをした正成なる謎の人。時と場所お構いなしに突然現れた。それに連なる結局。
勝利がどうこう。勝負や喧嘩(で自分が勝つか人を笑い物にする事)にしか意義、ではなく意味からして見出せない粘着喜六郎への皮肉を二人とも解っていない。解らないから引っかかって粘着の材料にしてしまう。わざわざ「笑ひ。」まで付いているのに。
そして話の解る人にはそれを見てこういうのと同じにはなりたくない、やはり最低限の常識はあるのだと野嵜さんは思って欲しいわけで。今までの主張からして。

笑い物になるとはよく言うが笑い物にするとは言わないよな。

日付も書いた方が良いか。9月21日。
独りよがりな野Qの「正しさ」
闇黒日記
「人が大事なのではなく、理想が大事なのだから。」の部分について。
この場合の「人」は人からの評判、見られ方を指している。「滑稽に見られようが人から嘲られようが」「道化にでも何にでもなつて良い」。
「理想」の方は一般的な意味で、全ての人にとって望ましい状態を指している。共産主義など各人の具体的な理想を指してはいないし、それらを持つ態度を直接肯定しているのではない。
人の評判を気にする人は自分の利益を追求しているに過ぎない。そんな自分に解るだけの結果を重視するのは理想の存在を否定するのと同じで、野嵜さんはその価値観に反論して大事なことは大事に決まっているという当たり前の話を当たり前の話として主張している。
だがKirokuro氏が読み取った人と理想については野嵜さんの意味と同じに見えない。
イデオロギストとは何なのか。例えば野嵜さんの主張をイデア主義や普遍主義などのイデオロギーに基づいていると捉えて批判をするなら何となく解りそうではある。具体的にどんな批判になるやら解らないが野嵜さんは確かイデア論者と名乗っているので。しかし共産主義者市場原理主義者とは何処から出て来るのか。共通点はその主義者が偏狭で病的である事だそうだ。主張内容そのものが病的即ち知る意味の無い物とは言えないらしい。

イデオロギーとは「観念学」の事らしい。のだが「ドイツ・イデオロギー」での捉え方がイデオロギーの意味として今に広まった。そしてマルクス主義が下火になるとマルクス主義を代表的なイデオロギーとして扱う人が出てきた。ぐーぐる先生知識。

ナルシストの粘着・Kirokuroが、偏狹を批判する珍事 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ

人よりも理想が大事。
これは偏狭なイデオロギストの考え方であり、私とは相容れない。
私はやっぱり、人あっての理想だと考える。
私は、このKirokuroの發言は、大變重大な問題を含んでゐるやうに思ふ。なぜなら、Kirokuroは、「人あっての理想」と言つてゐるからである。
★これは、結局Kirokuroが、理想にのみ興味を抱いてゐる事實を示す。
確かにそのまま読んだらそうなる。私は勝手に人より理想が大事の反対で理想より人が大事と書きたいんだろうと解釈してしまっていた。

「人の上に人を戴く文化」と「人の上に神を戴く文化」
何となく連想したのでメモ。

はてなキーワードなんかあったか……。ってもう10月だけど。松原正氏について書いたなそう言えば。消えてしまったようだ。色んな人の影響を受けて血肉化と言うか咀嚼するのは凄いよなあと。松原氏が言及している作家等の文章を読んでも全然解らないのだが、それがどんな文脈に活かされているかを読むと自分の考えにとってのヒントにはなるし、氏が何を書きたいのかが少し掴めるようになる気がする。福田恆存氏も。

8月のメモ

投票へ行こうとかいう話題。
一先ず。フリーターとかメタボとか児ポ法とか人名用漢字とか投票率とか政府が問題にしている事を、庶民に身近な問題だからと言って兎に角話題にしてみるのはどうかと思う。
そうやって、人に聞いた(元を辿ると政府か時事ニュースか新書から得た)情報ばかりで議論し、「もっと大事な問題があるかも知れない」と予想すらしていなければただ流されているだけだと言える。
議論以外にする事と言えば署名や宣伝や工作や人脈作りのような自分が効果を期待出来る事つまり政治活動がある。しかし誰の為に何をするのか。何時でも自分に有利な行動を取れるとしても利己的だとそれだけで敵を作ってしまう。ならば何時でも言えそうな正義を主張するしかない。
二つ目。文句を言う資格は無いと言う言論の自由否定派が多過ぎる。排除すべき文句と正当な批判の基準を投票するかによって引くべきではない。
勿論、実際は排除までしようとする人は少ない。文句を言う資格は無いとは書いても、それがまだ普通の人なら人に黙れ、コメントを消せとまでは言わない。誹謗中傷等通報すべき内容でもない限りわざわざ黙らせる必要までは滅多に無いのだから。しかしそこまでやる異常な粘着を後押ししてはならないと思う。「文句を言う資格は無い」という発言を軽々しくして良い類の物とする人を認める事は出来ない。多くの人にとって耳障りなくらいで問題とするならば当然、それより明らかに酷い言葉の暴力を先に取り沙汰すべきである。
三つ目。組織票を嫌がる人が多いけれども、日本国だってどう見ても一つの偏った組織である。日本語は他とは違う偏った思想を表している。投票券を受け取って何も思わない人は居ない。何をするにも人の影響は受ける。だから自分が(今の所)正しいと信じる意見が何の影響を受けているかを把握している状態でなければ、凝り固まった考え方をしているのと余り変わらない。
文章が滅茶苦茶過ぎたので直した。