2010年3月

3月4日
Kirokuroの床屋政談日記 : 謹賀新年
今コメントを書かうとしたら書き込めなくなつてゐた。以下書かうとした文章。

では「Kirokuro」とは何なのですか。何故性別年齡身分の話になるのか全く解りません。Kirokuroとはまるで社會的發言や政治的發言をして許される人種名か何かのやうです。「被害者意識」とは何の事ですか、私は野嵜さんは「Kirokuro」さんの被害に遭つてゐると今主張してゐるのですが。
意味不明な理由で多くの人間を侮蔑しつつ、自分の意見が當然受け容れられるかのやうに「言ひたいですね」などと締められると相當鈍いのだらうとしか思へません。
「『粘着』」などと書いてゐますが「Kirokuro」さんがしてゐる事こそ「他者批判」「荒らし行爲」に過ぎません。場所によつて何が變はるのですか。ウェブで「場」に拘る事には意味が無いと云ふやうな事は野嵜さんが書いてゐたし私も書いてゐます。そもそもその程度の通念で氣樂に人を裁いてよいのであれば「粘着」としか言ひやうの無い行爲が許される筈はありません。
「Kirokuro」さんは勘違ひしてゐます。普通の人は喩へ「こんな人間は非難されても仕方が無い」と判斷した事があつたとしてもそれを口に出しません。そんな他人の缺陷よりまづ自分の事を何とかしようとか、なるべく意義がある事、なるべく正しい事をしようと考へるからです。まして自分の缺陷など幾らでもあるのに何年も他人の非難を「しても許される」事を理由に續ける人などゐません。
しかし「Kirokuro」さんは「自分はそんなに惡いのか」と云ふ根據しか無いのにも拘らず、特定の相手に反省を求める事は何年も止めません。他人にまづ己の所業を反省すべきだと迫るのは矛盾してゐて間違つてゐます。他者批判が必要な場合はあります。その機會を作つてしまつてゐるのが「Kirokuro」さんです。

常識を持ち出すべきでない場合はあると云ふ事。

3月5日
政治的發言は政治運動に屬する發言の事だと思ふ。社會的發言の方は解らない。誰だつてしよせんこの世の齒車です。

今日は満月へのご意見・ご感想

人の揚げ足をとって楽しむことを目的に、歩き回っている徘徊者がwebにはいるので、きちんと説明をしておかなければ後でどんな可笑しなトラックバックやらコメントやらを受けるか分らない。いや、ふと思い出しただけ。誰も本気で、こんな日記に突っ込みされるだなんて思っていないから。

私の「揚げ足取り」も「こんな日記」も全て本氣ではないとニヒルなやうでゐて、何事も無く更新し續けてゐるのだからそれすら冗談半分だと云ふ事になる。
確かに、あるべき議論の仕方だけ論ふのは程度の低い行爲だ。論ずべき問題を知らなければ意味が薄い。だから立派ではないけれども、しないよりはした方が増しだと思はれる。批判はして貰ひたい。しかしさう云ふ事をする意義からして無い物と極附けられる意味が解らない。