9月のメモ

月が変わったので分けてみる。
私はやりたくない事の言い訳以外に何もしていない。何の所為かは兎も角何も入って来ないのは事実なので代わりに吐き出してみる。インターネットのしかも常時接続環境など最近出来た物だからそれにわざわざ乗る必要など全然無く、乗せられているだけなのだが。



正字正かな」は正しいような気がする。「常用漢字」「現代仮名遣い」は「ボクと魔王」の「分類表」にそっくり。ネタバレ。
Wikipediaの現代仮名遣いの項、現代仮名遣いが正書法であると最初に紹介して置きながら、批判意見ばっかり載せている。そして時々擁護に繋がる。一人の記者が大筋を書いていて、欠陥は多く指摘されていながらも現代仮名遣いは確かに存在している正統な存在であると結論付けているかのように見える。それがもし正かな派の人が、載せて許されそうな程度に批判を紹介した振りをしているのだとしたら逆効果だろう。批判なんか無視して世の中回っているのだから、参考文献など示されても趣味の人以外読む価値の無い全然大した事の無い物のように見える。と言うかそんなのは正かな派のする事ではないだろうからそんな事実は無いと思うが。Wikipediaは色んな人の意見がごちゃまぜになっていて批判出来ない。ログなんか見ていられない。筆者の名前を一々示せばいいのに何か不都合でもあるのだろうか。記事が一塊に見える事への拘りは何なのだろう。

Wikipediaには書かれていないけれども洗脳だから嫌だよ。日本の政治による表記の押し付けは戦後から始まった。昔は反対によって取り下げられた改革(案)ならあった、だが当時の仮名遣いに「反対」した人は居ない。こちらの方がより正しいと考えた研究者に従う人は居た。それにまた異を唱える研究者も居た。それは従わされているとは言わない。現代仮名遣いは我こそが現代の正書法であると名乗りを上げている。「現代」を名乗られたら「今から永遠に」という意味だしか考えられない。幾ら改正を重ねても昔の方が正しい場合もあり得るとは絶対に認めないと宣言している。若しくは我こそが永遠に正統な歴史的仮名遣いの後継者であると謳っている。改正する度にそう言う。とてもおかしいが現代と言ったらそうなる。しかしどうしてそんなに権威的に振舞うのだろうか。仮名遣いに歴史的と名付けたのも現代仮名遣い主義者である。まるで日本語に真の仮名遣いが二種類あるかのような言い方をなぜし始めなければならないのか。その強引さと性急ぶりを見ないで二つを同じ物として対比したり、正かな主義者だけにどうこう思う所があるのはおかしい。
制定にしても告示にしても政策ならば、施行後に生まれた者であろうと鵜呑みにしてはならないと誰だって言うだろう。現代仮名遣いは中途半端な表音化であるし、表音主義は突き詰めても発音記号にしかならない。
或いは面倒臭い事を理由に正当化してはならない。それは改革が行われなければ正しい方に従っていたのにという事だ。つまり正字正かな派と同じだ。それなのに正字正かなの支持はしないとなると、それは単に今は亡き改革者に責任を押し付けているだけであって、実はアンチ現代仮名遣いの立場であると言える。
それかもしかしたらお上の言う事だから素直に従うという人がいるかも知れない。だが従う相手の国語国字改革者達は、名前を見れば解るように改革を是としている。そうなるとそんな人が従うべき仮名遣いは改革以前の人が従っていた物しか残っていない。

英語に於けるhistorical spellingとphonetic spellingって何だと思ってググった(でもすぐ諦めた)。昔の2ちゃんねらーは今と変わらないな。2ちゃんねらー臭さがなかった人は今は消息不明だったり、オフラインで何かしているらしかったり。

他人の真似ではいけないとすぐに思い当たる人は結構居るらしい。勝手に括られたら適わないだろうが私もその手の人間だと思う。しかし駄目なのは学習不足だからだと言うか……。

ただ嫌なだけでは「我慢が足りない」と言われても反論出来ない。きちんと疑わなければならない。
我慢出来ない事を、辻褄を合わせながら書ければ正しいと言えるのだろうか。真剣になるべき時にならなければいけないしそれだけでは立派と言う程でもないし。

自分以外にはどうでも良さそうな話。そういうのは自分にも役に立たないらしい。
現代仮名遣いを擁護し切れそうにないからと言ってさっさと逃げてしまったら、今度は知らなかった振りをしている事になる。言い換えればそれは無言の主張、「皆と同じで良いではないか」という非合理的な主張である。「それでも皆が信じている」、それは事実だ。もし突然、誰も気付かない内に現代仮名遣いや常用漢字その他を廃止すると官報に書いてあったとしたら、それは誤りとして取り消されるだけだろう。それを機にそれらを疑いだす流れなど起こらないに決まっている。せいぜい正字正かな派のテロだったのではないかと粘着アンチが騒ぐかもしれないがそれは今でもそうだ。……変な喩えだった。正字正かな派は実績などに関係なく、いやあればあるだけスルーされている、それが証拠だ。
言葉の例から察するに今の人は思っているより論理的ではないのではないか。魔法にかかっているような気がしないでもない。「分類表」。またネタバレ。日本人が想像するような「お役人」達が、本当は在りもしないけど誰もが信じている王家とやらに従い分類表を管理していたりとか。王女様には天の声を聞く力があるとかいう従者の適当な説明を皆が訳解らなさそうにしながらも取り敢えず受け入れていたり。昔は「魔法っぽい物も全て技術という事で説明出来そうなな現実的な世界なのに分類の力の源だけは謎過ぎる」と思っていたのだが事実はゲームより奇なり。あれRPGでなくてよかったなー。

君は○○なのかではなく私は君が○○なように見える、だろう。君は○○するかではなく私は君に○○して欲しい。誘いなのに来られるかいと問うのは何故。

「生きづらい」って何が辛いんだろう。AC云々の用語だったような。
そう言えば「世知辛い」も良く解らない。もう古い言い回しだろうな。
「情けない」の使い方が今一つ解らない。読めば何となく解るけれども自分で使えない。「情」の意味からして解らない。情けない事に。

こういうの見るとどうも。
http://blogs.yahoo.co.jp/nozakitakehide/30636902.html#33276417
昔居たらしい近所のおばあさんのようなフリをした正成なる謎の人。時と場所お構いなしに突然現れた。それに連なる結局。
勝利がどうこう。勝負や喧嘩(で自分が勝つか人を笑い物にする事)にしか意義、ではなく意味からして見出せない粘着喜六郎への皮肉を二人とも解っていない。解らないから引っかかって粘着の材料にしてしまう。わざわざ「笑ひ。」まで付いているのに。
そして話の解る人にはそれを見てこういうのと同じにはなりたくない、やはり最低限の常識はあるのだと野嵜さんは思って欲しいわけで。今までの主張からして。

笑い物になるとはよく言うが笑い物にするとは言わないよな。

日付も書いた方が良いか。9月21日。
独りよがりな野Qの「正しさ」
闇黒日記
「人が大事なのではなく、理想が大事なのだから。」の部分について。
この場合の「人」は人からの評判、見られ方を指している。「滑稽に見られようが人から嘲られようが」「道化にでも何にでもなつて良い」。
「理想」の方は一般的な意味で、全ての人にとって望ましい状態を指している。共産主義など各人の具体的な理想を指してはいないし、それらを持つ態度を直接肯定しているのではない。
人の評判を気にする人は自分の利益を追求しているに過ぎない。そんな自分に解るだけの結果を重視するのは理想の存在を否定するのと同じで、野嵜さんはその価値観に反論して大事なことは大事に決まっているという当たり前の話を当たり前の話として主張している。
だがKirokuro氏が読み取った人と理想については野嵜さんの意味と同じに見えない。
イデオロギストとは何なのか。例えば野嵜さんの主張をイデア主義や普遍主義などのイデオロギーに基づいていると捉えて批判をするなら何となく解りそうではある。具体的にどんな批判になるやら解らないが野嵜さんは確かイデア論者と名乗っているので。しかし共産主義者市場原理主義者とは何処から出て来るのか。共通点はその主義者が偏狭で病的である事だそうだ。主張内容そのものが病的即ち知る意味の無い物とは言えないらしい。

イデオロギーとは「観念学」の事らしい。のだが「ドイツ・イデオロギー」での捉え方がイデオロギーの意味として今に広まった。そしてマルクス主義が下火になるとマルクス主義を代表的なイデオロギーとして扱う人が出てきた。ぐーぐる先生知識。

ナルシストの粘着・Kirokuroが、偏狹を批判する珍事 - 闇黒日記2.0 - Yahoo!ブログ

人よりも理想が大事。
これは偏狭なイデオロギストの考え方であり、私とは相容れない。
私はやっぱり、人あっての理想だと考える。
私は、このKirokuroの發言は、大變重大な問題を含んでゐるやうに思ふ。なぜなら、Kirokuroは、「人あっての理想」と言つてゐるからである。
★これは、結局Kirokuroが、理想にのみ興味を抱いてゐる事實を示す。
確かにそのまま読んだらそうなる。私は勝手に人より理想が大事の反対で理想より人が大事と書きたいんだろうと解釈してしまっていた。

「人の上に人を戴く文化」と「人の上に神を戴く文化」
何となく連想したのでメモ。

はてなキーワードなんかあったか……。ってもう10月だけど。松原正氏について書いたなそう言えば。消えてしまったようだ。色んな人の影響を受けて血肉化と言うか咀嚼するのは凄いよなあと。松原氏が言及している作家等の文章を読んでも全然解らないのだが、それがどんな文脈に活かされているかを読むと自分の考えにとってのヒントにはなるし、氏が何を書きたいのかが少し掴めるようになる気がする。福田恆存氏も。